きつねののーと

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「教える」という行為が計画どおりに行くなんてありえないのだから

計画どおりにしようとしても

教育現場で何かやることに慣れていない人(例えば、教育実習生、あるいはボランティアで教育に携わる学生や大人など)のなかに、こういう人がいる。

何か自分の伝えたいことがあって、子どもたちと話すのだけれど、なかなか上手くいかない…相手が、自分が思い描いていたような反応をしてくれない。また、想像していなかった事態にたじろいでしまい、どうしたらいいか分からなくなって、どんどん深みに嵌っていく…
自分がそういう事態を想定していたら、思わぬことがあってもスマートに対応が出来ていたかもしれない。自分の準備不足が、なにより能力不足が招いたことだ…
「こうした事態にどうやって対応するか」という、方法論をもっと知らなきゃいけない…

何も教育現場に限ったことではないことだ。身に覚えのある人も多くいるだろう。
どういうことかと言うと、

  1. 偶然の、想定していなかったことが起こる。
  2. 上手く対応できず、自分の能力が悪かったと思う。こんなはずじゃなかったのに、と。そして自己効力感が下がる。
  3. 次はこういった事態に上手く対応できるようにと、方法論を学ぶ。
  4. また想定外の事態が起こる。

以下エンドレス。まさに負のスパイラルだ。
こうして、「教える者」はどんどん自分を摩耗させていくことになる。

偶然性を許容する

他人と関わる以上、起こり得る事態だ。なぜなら、他者は「他者性」をもつ、本来分かり合えない相手でしかないのだから。だから、自分が想定していなかった「偶然的な」事態が生まれる。
偶然性は、他者と関わる以上排除できない。

もちろん、教育において、学びは計画されうる意思的・意図的な営みである。しかし、それは学びの一面であり、全てではない。教育学者の田中智志は、学びとは偶有性を孕んだ営みであり、この予期せざる偶有性が学びの楽しさを増大し、自己創出的な学びのシステムを重層的に喚起・促進するという。つまり、学びは計画的な営みであると同時に偶然的な営みである、ということだ。

学ぶことが、計画がもたらす必然性と計画から外れた偶然性を含む以上、「教える」行為も捉えなおされる必要がある。学びの偶然性を認識してそれを肯定したうえで、「教える」行為について再考するとき、その具体的な視点は、単なる方法論を越えて、他者をいかに受容するかとか、他者にいかに興味を持つかとか、、、そうした自分の振る舞いや態度へ目を向けられることになる。

それは、「教える側に求められる資質」が、客観的で測定可能な能力の問題から脱して、己の人格の問題へと転回することを意味している。そっちの方が、競争に彩られるより、有意義だろう。なんせ比べられる必要はない。自分のペースで、成長していけばいいのだから。