観光をすること
大学生の頃、長期休暇のたびに一人で日本全国をふらふらと旅をしていた。
気の向くままに途中下車をしたり、自転車でわき道にそれたりしながら、ブラタモリ的な旅をしていた。旅によって心の安定を得たいとかそういった理由はなく、ただ旅をすることそのものを目的として、その土地の文化に触れ、実際ちょっと染まってみたりする。
実に旅人的なその行為は、自身の生活世界を越境して、異邦と出会う経験である。
自分のあずかり知らぬところで、人が淡々と生活している。
理屈では理解してはいるが、実際にその場に行ってみることは、その知識に納得をもたらす。それは、東浩紀のいうところの、「『分かってしまった』情報に対して、あらためて感情でタグ付けする」*1ことである。
そしてそれは、自分の生活に戻った後、他者に想像力を働かせる鍵となる。自分の普段の生活が少しだけ色づいて感じるようになる。
そういえば、関西圏出身の人間なので、よく「京都案内してよ」なんて言われる。確かに京都は生活圏内だったが、だからといって「観光地」についてよく知っているわけではない。伏見稲荷や銀閣寺は、高校を卒業してから初めて訪れた。
なので、有名なお寺とか神社とかの蘊蓄を事前に調べて、頑張って案内するわけだが、どうやらそれらにそんなに興味はないらしく、彼ら彼女らにとっては「そこに来た」こと、それだけで満足になるらしい。
そういう人にとって、旅行に行って観光することはスタンプラリーか何かなのだろう。
瀬戸内海のとある島にて。愛車のミニベロ(BD-1 classic)で移動中のときの写真。