指導者の感情労働【メモ】
- 同期の研究を手伝っていて、自分が考えた内容の整理
- ホックシールドの感情労働
- 教師による教育は、感情労働の側面をもつ。
- 教育行為は、他者を望ましい方向へと変えようとする積極的な意図行為である。
- このとき当然に、教師自身が他者の他者性をどのように捉えるかが課題となる。
- 伊佐(2009)は教師の感情労働について、以下のような構造を明らかにしている。「子どもの感情に対する働きかけが教授行為の基本を構成しており、教師が教授行為そのものを成立させるためには、子どもの感情を規定すると同時に、自己の感情をも規定することが求められる」
- 教育的関係においては、教育行為の成立に感情労働が必要となることが理解できる。
- 伊佐の指摘で注目すべきは「教師の感情労働は、強制され、他律化されるという一面をもちながらも、それと同時に、日常的な教育行為を成立させるために教師自らが行うという戦略的な側面をもつものでもある」ということである。
- つまり、教師が感情労働を戦略として積極的に引き受けるのだ。
- それは、教師自身の、教師としてのアイデンティティを確立する行為としても働くだろう。
- 問題は、他律化される感情と、教師自らが行う戦略的な感情が、矛盾する、あるいは一致しない場合である。
- 今までは教師の話であった。指導者に話を広げよう。これまでの教師は学校教師の略称であり、ここでの指導者とは、教師を含めた「教える者」として捉える。
- まず、指導者は教師以上に、他律化された感情労働の因子をもつ可能性がある。
- もちろんこの因子は、教育的関係の契約によって増減する。
- しかしながら、指導者を取り巻く因子が、教師以上に多様であることは容易に想像できる。
- 学習者のみならず、学習者の関係者(家族、友達)・指導者の関係者(雇用主、同僚)・指導する内容そのもののエートス等々
- 教師はこれらの因子が学校教育という制度によって固定化されていて、他律化された感情への戦略を練りやすいのかもしれない。教師になる人は、「教師」という立ち振る舞いに、ある種の了解をしているともいえる。
- 教師の感情労働の側面も時代と共に変化はあるだろうことは容易に推測できるが、それは大きな変容でもないだろう。
- 指導者に広げると、因子が社会の価値の多様化と関連しており、まず、取るべき「良い」感情を認識するのが難しいように思われる。
- 他にも、個人が自律的に選択した感情労働は、そう簡単に切り替えがきくものでもないだろう。しかし、学習者の個別性が重視される場合、それとの折り合いをつけていくことは困難となるだろう。
- 指導者は、どのように折り合いをつけているのだろう。
【参考文献】