夜のベランダから

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12月の日記・雑記

インフルエンザに罹った

10年ぶりにインフルエンザに罹った。前に罹ったときの身体のだるさやしんどさはもう覚えておらず、「ただ頑張りすぎた後に来るだるさ」との区別がつかないまま2日バイトを頑張ってから病院に診察に行くことになってしまった。こういった病気のしんどさを感じることはご無沙汰で、すっかり他人のしんどさに共感できないところまで来てしまっていた。折角の機会なので、この身体のようすを覚えておこうと、日々の経過を紙に起こして意識づける。これを機に病気に関する間主観的なコミュニケーションの取っ掛かりを少しでも取り戻せれば良い。「つらさ」や「弱さ」に共感することはヒトにしか出来ない機能である。

診断してもらいに、住んでいるところから一番近い診療所に行った。ただそれだけの理由で行ったのだけれど、インフルエンザの診断中は待っているしか無いのでぼうっとしていると、ある医者がやってきて「君、昔A病院に入院していた○○さんの息子さんかな」と言う。聞けばその医者は開業する前はA病院に勤めていて、亡くなった父の主治医だったらしい。笑いながら「その節はお世話になりました」とだけ返す。久しぶりの病気と同じように、10年以上前に死んだ父に関する情動もほとんど無くなっているのか、お世話になったらしいその先生には何も思うことなく、ただ場当たり的に返事した自分に少し驚く。

ふと、「ヒトは忘れる能力を持っている」という話を思い出す。事実や客観知は結構長くまで残っていても、特に情動は比較的すぐに忘れてしまう。失恋だって1年もあれば笑い話できてしまうのはそのせいだろう。その昔は関係者であったであろうその医者に、もはや何の個人的感情も湧いてこないのは、時間が経って忘れてしまい、またその人との関係性をリセットしてしまったからなのだろうな、とも思う。長く付き合う人は定期的に会っている人だという理屈はなかなか理に適っているなとも思う。

修論を前に

あまり前向きにやろうと思って始めた研究ではないので、なかなか前に進まず気付けば提出一ヶ月前まで来てしまった。まだ取っていないデータもある。データを取る為には複数の人にお願いをしに行かないといけない。反面、別にどうでもいいと思う自分もいる。そもそも修士課程に行った目的は研究ではなく、他分野の勉強とモラトリアムを延長するためで、それはほぼ達成している。

とはいえ世間体はそう見ないし、一応2年近く指導してもらっている指導教員の僅かな期待にも応えないといけない。「しないといけない」ことが多い場合、苦行になる。こちらとしてはなるべく楽しくやりたいのだけれど、それは指導教員との相性にも拠るところなのだろう。