夜のベランダから

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Atomを試してみることにした

1.長いはじめに:テキストを書くために

 大学ではレポートや論文やレジュメを作る機会がたくさんあるが、ではそのためのテキストを打っていくとき、何で作るかは考えるところだ。

 とにかく、文章を整理して打つことが出来て、その気になれば表や図を載せることができて、思うようなレイアウトで印刷できることが必須となる。別にデザイナーになりたいわけではないのでシンプルでいい。

 Microsoft OfficeのWordでええやんけとなるが、これがそうもいかない。Wordのデメリットをいくつか挙げる。

  • Wordにはバージョンがあり古いバージョンの文書を新しいもので読み込めなかったり、レイアウトが変わったりしてしまう危険がある。
  • そもそもOfficeを導入するのにはお金がかかる。デフォルトでOfficeが入っているSurfaceを買うにしても最近高いし。(まあ既にSurfaceは持っているのだが)
  • 僕は文章の半分をiPadで書いているのだけれど、11インチ以上のタブレットを使う場合、Office365でないといけなくなった。365には永久ライセンスという概念が無く、月額あるいは年額の支払いが発生する。学生でいる間は大学のアカウントで登録出来るので無料で使用できるが、あと1年の命である。
  • 印刷や原稿の最終チェック、がっつり腰を据えて書きたいときの固定砲台として使っているSurface3くんの調子が数年前からよくない。具体的にいえば、Wordがたまに落ちる。1時間かけて書いた数千字の文章が消えてしまった...みたいなことが何度かあった。今思い出しても殺意が沸いてくる。

 ということで、テキストエディタとしてWordは使いたくない。だとしたら、代わりを探さないといけない。できれば、先ほど挙げたWordの問題をクリアできるような。

 Microsoft Officeのパチモンみたいなもの(失礼)としてGoogleのオフィス系サービスや、高校生の時お世話になっていたOpen office、最近だったらき企業でもよく使うWPSやKINGSOFTなんかがある。

 まあ、正直それだっていつまで使えるか分からない。互換性が確保されていないと中々使いづらいところではある。

 なので、学部の途中から、Markdownを使っている。Markdownエディタは結構軽くてて使いやすいのも多いし、色々試しながら使っている。はてなを始めたのも、元々Markdown記法で投稿ができるからだ。この文章もMarkdown記法で書いている。使いやすさは微妙だが。

 Markdownファイルは全て、DropboxGoogle Driveで共有して、各デバイスからアクセスできるようにしている。Google Driveは大学のおかげで容量を気にする必要が無いので、バックアップの一手段として用いる。

 iPadでは「1Writer」を使ってDropboxからアクセスできるようにしている。Dropboxは頻繁にアクセスするため、今受けている講義のレジュメや論文を放り込んでいる。iPad用のエディタは色々試したが、今のところこれが一番だと思う。

 問題はノートパソコンの方。学部生のころは「Haroopad」を使っていたが、なんというかデザインが合わなかった。大学院に入ってからは「Typora」を使っている。シンプルで使いやすい。htmlも打ち込めるので、細かなレイアウトの変更もそれなりに効く。

2.Atomに手を出してみる

 だったのだが、最近そろそろプログラミング言語を勉強した方が良いんじゃないか、という気持ちが出てきた。将来、自分が就くであろう職業を考えるとおそらく必要になるかもしれない、という見立てが半分、「なんかかっこええやん」という気持ちが半分。

 んで、とりあえずMarkdownで書くこともできつつ、気が向いたときに各プログラミング言語に触ることができそうなAtomをインストールしてみた。とりあえず、色々設定をいじって、パッケージをインストールして、Markdownで書くのに支障のない環境だけは作り上げた。

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いい感じ

3.Markdownからpdfへ:いい感じのレイアウトの文書をつくるために

 AtomMarkdownエディタとして整えたのはいいが、レジュメを印刷しようと思うとうまいこといかなかった。

 パッケージの「markdown-pdf」を試したが文字が小さすぎる。色々調べても(と言っても日本語の範囲でだが)どうやってうまいこと設定したらいいかが出てこない。

 こうなれば、「markdown-preview」をいじる方が速そうだ。

AtomエディタのMarkdown PreviewのCSSを実務書類的に調整する

 この記事のをstylesheetにコピペし、フォントや余白設定などをいじいじする。

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いじいじ

pdfにしたときのレイアウトを見ながら、以下のように変更した。

.markdown-preview.markdown-preview {
  @c_border: #666; // border-color

  max-width: 900px;
  margin: 0 auto;
  padding: 30px;
  color: black;
  font-size: 13px;
  font-family: 'Meiryo';
  hr {
    margin: 50px 0;
    background-color: transparent;
    &:after{
      content: "";
      display: block;
      border-top-style: ridge;
    }
    &.pb {
      // <hr class="pb">を入れる事で、
      // プリント時の改ページを指定することができる。
      page-break-after: always;
      &:after {
        display: none;
      }
    }
  }
  h1, h2 {
    font-family: 'Meiryo';
    font-weight: normal;
    border-color: @c_border;
  }
  h3, h4, h5, h6 {
    font-family: 'Meiryo';
    font-weight: normal;
  }
  h1 {
    font-size: 17px;
    border: none;
    margin: 10px auto;
    text-align: center;
    letter-spacing: 4px
  }
  h2 {
    font-size: 15px;
    letter-spacing: 2px;
    margin: 10px auto 7px;
  }
  h3 {
    font-size: 14px;
    font-weight: bold;
    margin-bottom: 7px
  }
  h4 {
    font-size: 14px;
    margin-bottom: 8px
  }
  h5 {
    font-size: 14px;
    font-weight: bold;
    margin-bottom: 5px
  }
  h6 {
    font-size: 14px;
    margin-bottom: 5px
  }

  // 見出し以外のタグを字下げする
  // ぱっと思いつく、よく使うタグを指定
  p, table, ul, ol, dl, pre, blockquote {
    margin-left: 10px;
    ul, ol, dl {
      margin-left: 0px;
    }
  }
  table {
    border-collapse: collapse;
    border-spacing: 0;
    max-width: 800px;
    th {
      text-align: center;
      background-color: #eee;
      border-color: @c_border;
    }
    tr {
      border-top: #666;
    }
    td {
      border-color: @c_border;
    }
  }
  .margin-clear {
    margin-left: 0;
  }
  // テキストの中央揃え
  .center {
    text-align: center;
    &:extend(.margin-clear);
  }
  // テキストの右寄せ
  .right {
    text-align: right;
    &:extend(.margin-clear);
  }
}

 htmlに出力して、pdf印刷の画面を表示してみる。

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印刷

 なかなかいい感じのレイアウトになった。あとは、pagebreakのタイミングとかが、previewの時点で分かればいいのだけれど...

ボランティアと教育のメモ書き

  •  先輩がボランティア論で修論を書くという。それでここ数ヶ月、僕は先輩とよく議論している。色々考えることがあったので、僕の考えをまとめておく。
  •  ボランティアと教育。このふたつはよく絡められて議論される。 実際に学校教育には浸透していて、学習指導要領の特別活動の項にも出てくるし、JRCみたいなボランティア部だって良くある話だ。
  •  あるいは。大学でのボランティアは推奨される。就活のためという名目でのボランティアはもう今では武器ではないので、どちらかといえば自己成長の論理と結び付けられて、大学で募集が行われていたりする。

さて。

  •  ボランティアってそんなに良いものなのだろうか?
  •  教育とセットに語られるせいで、ボランティアをする行為自体の体験にはあまり目が向けられていないように思われるのだ。
  •  ボランティア自体は教育と大変親和性がある。それはどちらかといえば、体制的な意味合いが強い気がしないでもない。ボランティアは「人手不足」なので(ボランティアに需要という考えを持ち込むのは個人的にはやめた方がいいとは思うのだが)、社会貢献・社会教育・地域教育・道徳等の文脈と結びついて、学校教育で行われる。逆に、教育活動としてボランティアを創出することもあるだろう(募金系とか)。
  •  さて、僕が問題にしたいのは、このときボランティアをすること自体の意味を皆がどのように語るのか、ということだ。
  •  結論を言ってしまえば「自分のためにやっています」「相手のため、というよりやること自体が楽しい」ということが語りづらい構造をしている。それも長くコミットし続けるために大事なことなのに。
  •  ボランティアの本質は純粋贈与であり、経験として回収されるものではなく、体験そのものである、という話を矢野智司はする(『贈与と交換の教育学』)。正直全くもってそのとおりだと思う。
  •  現在教育としてボランティアを語るとき、することそのものに価値が置かれるのではなく、「した結果」でしか語らないのはなんなのだろうか。募集チラシで、ボランティアのインタビュー記事で、ボランティアの振り返りの感想で「ボランティアを通して○○を学びました」というニュアンスの語りしか出ないのはなぜだろうか。
  •  ボランティアをそれなりに続けてきた者としていえば、「そう語るしかできない」のかもしれない。
  •  周りはそういった答えを求めている。分かりやすい結果を。「美しい」物語を。
  •  ボランティアは他者を第一に考えて振る舞うよう規定されている。なので、他者のことを考えていない語りは「ありえない」。
  •  しかしながら、そのような論理で語られるボランティアは、果たして、ボランティアをする側の身になっているのだろうか?そこに教育的意義はあるのだろうか?ボランティアをさせる側の満足にしかなっていなくないか。
  •  ボランティアをした結果を求められるボランティアは、ある種自転車操業のようだ。ボランティアをし続けるために意味が必要なのだから。しかも、その意味も決められた枠のなかで。
  •  もっと色んな動機を肯定できる社会構制であったらいいなと思う。

最後に。

  •  先輩がある論文を教えてくれた。数百名の学生を対象に行った調査がある。小中高に授業の一環としてボランティア活動に参加した95%は現在ボランティアをやっていなかった。
  •  さて、この現状をどう見ればいいのだろうか。

初マラソンに向けて:いかに楽してトレーニングするかを考える

1.はじめに

 市民マラソンに応募した。

 実はこのマラソン、去年も応募して当選していたのだが、本番1ケ月前に足を捻挫して歩くのも大変だったので、結局走らなかった。

 よくよく振り返ってみれば、生まれてこのかた10kmより長い距離を走ったことはない。そして、今も運動をしていない。1ケ月に1時間運動していたら良い方である。マラソンに当選するしないは別にしても、あまりに運動していなさすぎである。最近少し顔に肉が付いてきた気もする。これを機に定期的に運動する習慣を整えていければいい。

 さて、フルマラソンを走るとなると、トレーニングのやり方を考えなければならない。当然、やみくもに走ればいいってもんじゃない。時間もやる気も有限である。効率良くトレーニングしなければならない。

 こちとら中高保健体育科の教員免許を持っているのだ。頭を使ってやろう。

2.現状の把握

 まず、自分の実力を確認せねばならない。マラソンの距離を走るペースとしては、主観的運動強度(RPE)13あたりがもっとも理想といわれている。いわゆるスロージョグと呼ばれる、自分にとって「このペースならずっと走り続けることがぎりぎりできるスピード」だと思ってもらえばいい。

 で、とりあえず6km走ってみた。計測はiphoneアプリの「Runtastic」を用いた。

Runtastic ランニング&ウォーキング

Runtastic ランニング&ウォーキング

  • runtastic
  • ヘルスケア/フィットネス
  • 無料

結果

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 ご覧のとおり、だいたい5.5(min/km)あたりだ。フルマラソンのタイムとしては、できれば4時間を切りたいので、そうなればだいたい5(min/km)のスピードを目指さなければならない。ということは、今のタイムを縮めていくためのトレーニングが必要となる。

3.(なるべく楽そうな)トレーニング方法を考える

 ということで、必要そうな情報を揃える。ランニングパフォーマンスに関わる要素は、以下の3つといわれている。

  • 乳酸性作業閾値(LT)
  • 最大酸素摂取量
  • ランニングエコノミー
乳酸性作業閾値

 走る、という行為は筋肉の伸縮によって行われる。そして、筋肉は速筋と遅筋に分類され、それぞれで使用する成分が異なる。速筋で糖を使ってエネルギーを作り出すと、結果として乳酸が生まれる。この乳酸は遅筋に取り組むことによって、酸素と脂肪と合わせてさらにエネルギーを作り出すことが出来る。運動強度が一定以下であれば、乳酸を遅筋が取り込み切ることができるため、血中の乳酸が増加することはない。しかし、運動強度が高くなると、速筋の動きがさらに活発になり、乳酸の生成が増加し、遅筋が取り込んで使用しきれずに、乳酸が溜まることになる。

 この乳酸濃度の値が上がらないで運動できる強度を、乳酸性作業閾値(LT)と呼ぶ。乳酸性作業閾値が高まれば、速いスピードでも乳酸を遅筋に取り込んでエネルギーにできることになるということだ。

 これについての効果的なトレーニングが、スロージョグである。LSD(Long Slow Distance)と呼ばれるようなゆっくりとしたペースで長い距離を走り、遅筋を使い続けることで、遅筋を疲弊させ、それをフォローするように速筋が動員される。これを続けることで、速筋が遅筋化する。こうすることで、乳酸性作業閾値を効率的に高めることが出来る。

最大酸素摂取量

 最大酸素摂取量とは、肺に取り込まれた空気の中から酸素をどれだけ筋肉など体内の組織に送り届けて使うことが出来るかという指標である。筋肉単位でいえば、呼吸の能力ではなく、筋肉が酸素を受け取って使う能力とでもいえるだろうか。最大酸素摂取量が多ければ、筋肉で多くの酸素が使用できるということであり、多くの遅筋で脂肪と乳酸と合わせエネルギーを作り出すことが出来ているということになる。

 これについては、前述したスロージョグもある程度有効だが、今回はより効率的なインターバル走を導入する。スロージョグが時間をつかうことに着眼したトレーニングとすれば、インターバル走は、強度に着眼したトレーニングである。具体的にいえば、400mダッシュし、400m歩く、また400mダッシュ…ということを繰り返す。慣れてきたなら、距離を延ばしたり、本数を増やしていくことになる。あんまり時間をかけずにできるので、こういうのもありだろう。

ランニングエコノミー

 最後にランニングエコノミー。これは、ランニングの経済性、つまり燃費に関わることで、具体的に言えば、ランニングフォームである。全身の筋肉を走るという目的に向かって、効率的に動かすことができているか、ということである。

 例として、脚の動作に注目してみよう。脚の動作で注目すべき点は2つ。ひとつは、下腿の腱の弾性であり、もうひとつは、大腿の筋である。下腿の腱は、なわとびのような「跳ねる」動作を可能とし、走る際の推進力となる。走りに推進力を与える大腿の主な筋肉として、大腿四頭筋(太ももの前側)、ハムストリングス(太ももの裏側)、大臀筋(お尻の筋肉)が挙げられる。この3つの筋肉をバランスよく用いることで、効率的に疲労を軽くして走る。つまり、これらの筋肉のいずれかにのみ負担が集中することは、結果的にパフォーマンスが落ちることに繋がるのである。

 これらの筋肉が、効率的に、調和的に使用することができているか、ランニングの際に意識的にフォームチェックを行う必要がある。

筋力

 とまあ、それっぽく語ってきたが、正直現時点では長い距離を走るだけの筋力が単純に足りていない。とくに脚回りの筋肉が全然足りていない。走り終わった後攣りそうになってしまう。

 走ってちゃんと肉を食べていれば、勝手に筋力はついてくるだろうが、ある程度は筋力トレーニングは必要だろう。とはいっても時間はかからない方が良いので、これは適度に。

4.楽しく走るために

 普通に走っているだけだと絶対飽きる(景色も変わらないし、誰かと話しながら走るわけでもないし...)ので、走っている最中に何か気を紛らわすものが必要だ(真面目に走れ)

  • まずランニングコース。毎回いろいろコースを変えてみよう。春の時期川沿いを走ると羽虫が目に口に飛び込んできてなんとも走りづらい。というか走りたくない。スポーツグラスやマスクをつけて対応してもいいが、見た目は不審者である。
  • 次にランニングアプリ。1km通過何分ですよーとか言ってくれるやつがいい。「Ranstastic」の設定をいじって、1kmごとに時間を通知してくれるようにした。
  • 最後にランニングの時に聞く曲。よく「160BPMくらいの曲が良い」なんて聞くが、そんなので曲を決めててもつまらない。だからといって、プレイリストを作っても毎回聴いてても飽きる。毎度プレイリストを入れ替えるのも面倒くさい。そういえば「本しゃぶり」さんが、Siriを使ってKindleの読み聞かせ機能を使いながら筋トレしていたな。

honeshabri.hatenablog.com

honeshabri.hatenablog.com

 これを使って青空文庫でも聴きながら走ってみたらどうだろうか。kindleにダウンロードしたはいいものの、まだ読んでいない本が結構溜まっているのだ。他にも、落語とかも良いかもしれない。

 以上、「楽して」「効率的に」トレーニングを行うための計画を立てた。あとはやる気があるときになるべく走るのみである。

iPad Pro 2018で研究、勉強するためにやったこと(文系編)

はじめに

 レポートやレジュメ、論文を執筆するとき、研究室や下宿でノートパソコンを開いてやれば良いのだけれど、誘惑があってやりづらい(研究室に誘惑はないけれども、他の人もいるのでなんかやりづらい)。ということで喫茶店やフリースペースに行って作業しようと思うのだが、ノートパソコンを持っていくのも開くというのも、かさばるし重いし大事に扱わないといけないので面倒くさい。

 しかも、論文やレジュメを書くということは参考文献が必要になるので、本や論文を持ち歩かないといけなくなる。 論文をパソコンで読むってのもなんかなあ...だからといって書き込むとなると、紙で持ち運ばないといけないし... パソコンに入れてペーパーレス化しても良いのだろうが、そもそもパソコンを持ち運ぶことが面倒くさい。

 長い前フリだったが、ということでiPad Proである。

 僕と同じように、気軽に必要な資料を持ち運んで、気軽に色んなところで研究や勉強のために読んだり書いたりしたい!という文系大学生のための記事だ。ここでは、僕が実際に研究や勉強のために、iPad Proでやったことを紹介する。

論文を書くために

キーボード

 無くても書けるのだろうが、多分そんな環境で書く人はいないだろう。 iPadと一体型にできる、Smart Keyboard Folioが良いだろう。Enterキーがちょっと大きいのが嬉しい。

 分離型なら薄くて軽いLogicool Keys-To-Goも良い感じだった。

書くためのアプリ

 レイアウトのことを考えると、Microsoft Wordだろう。無料版だと使えないので、アカウントを紐づけて編集できるようにしよう。学生なら大学アカウントがあれば無料でMicrosoftのアプリが使えるようにしているところが多いだろう。

Microsoft Word

Microsoft Word

 iPad Proでは内容だけ書ければいいので、基本的に文章を書くときはmarkdownで書いている。.docxに変換したり、印刷するために体裁を整えるのはどうせパソコンなのだ。なので、基本は1Writer Markdown Text Editerで書いている。

 色々markdownで書くことのできるアプリを探したが、文章を書いて保存するだけならこれが一番シンプルで良かった。

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1Writerで書いている

 Dropboxと紐づけられるので、書いた文章は、Dropboxにアップロードする。あとはPCから編集すればいい。

Dropbox

Dropbox

 iPad Proくんは、2画面表示もできるので、片方で書きながらもう片方で文章を読む、ということも可能だ。

論文を読むために

 ネットで論文を拾ってきてpdf形式でDropboxGoogle Driveに入れておき、

それを読むときはそれらのオンラインストレージと紐づけたDocuments by Readdleでファイル管理して、

Documents by Readdle

Documents by Readdle

  • Readdle Inc.
  • 仕事効率化
  • 無料

PDF Expertapple pencilで書き込めるようにしている。

PDF編集:PDF Expert 7

PDF編集:PDF Expert 7

  • Readdle Inc.
  • 仕事効率化
  • 無料

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Documents by Readdleで論文整理し、アポーペンで書きこむ

 環境を整えるのには初期投資が必要だが、一回買ってしまえば月々に払うお金は発生しないので、学生としてはこっちの方が精神的によろしい。

 これだけ揃っていれば大学のレポートやレジュメ、論文を読んだり書いたりするのは困らないと思う。

では、良い研究ライフを。

哲学カフェのネタで思考訓練

 参加するはずだった哲学カフェが中止になってしまった。参加するとメールを送ったのが、開催日2週間前である。大学に行く道すがら、自転車に乗りながらテーマについていろいろと考えたことをまとめておく。どこかで使えることがあるかもしれない。ただし、哲学カフェのネタなのでなるべく専門用語は使わない。哲学カフェ的な思考形式に則って思考を進めていく。

 テーマは「サービスとはなにか」だった。

サービス

 まず思いつくのは、「サービス」という言葉の2通りの使われ方である。

  • ひとつは、職業としてのサービス。つまり、あるもの・ことを提供することによって、金銭的な対価を得る労働行為としてのサービスである。サービス業なんで言いかたはまさにそれでだろう。

  • もうひとつは、「これ、サービスね」とちょっとおまけをくれるようなサービス。ここで提供されたもの・ことについて、提供者側への対価は求められていないように思われる。このとき、後者のサービスには、「見返りは求めていません」というメタ・メッセージが存在する。

 そういえば、哲学カフェの案内文に、なぜこのテーマにしたかが書いてあった。そこにこんな一文が。

サービスとボランティアの違いはなんでしょうか

 後者のサービスの定義は、一見ボランティアと意味が被るような気がする。僕たちは、どのようにこの二つの言葉を使い分けているのだろう。そこには、一見同じ行為に見えるが、その認識、意味に何かしら異なるものがあるのだろう。

さらに考える。

 さらに考えていく。ここから先で言及するサービスとは、先ほど挙げたうちの、後者のサービスの意味合いである。

  • 例えば、サービスとは個人から特定の個人への贈与的行為をさしている、という仮定はどうだろう。というのも、僕たちが一般にボランティアという言葉を使うとき、ボランティアを行う対象は特定の個人を指して「いない」ように思われる。

  • もうひとつ。サービスには、返答の義務が発生する可能性がある思われる。つまり、サービスを受け取った側に、「サービスです」と言った時点で何かしらの負い目が発生することがあるように考えられる。

 例えば、ある喫茶店に行く。「サービスです」と言われてコーヒーのお代わりをいただく。こっちとしては、悪い気はしないだろう。「次もここを利用してみよう」と思うかもしれない。つまり、「なにかしてもらったから、ここになにかしよう」という、分かりやすい贈与交換の論理が働いている。このとき、喫茶店のマスターは「ボランティアです」とは言わないだろう。サービスとボランティア、それぞれの行為を受け取る側に、微妙な意味の差異が読み取れる。

 逆にボランティアされる側としてみればどうだろうか。ボランティアされる側には、もともと何らかの不利があるからボランティアされるのかもしれない。となれば、それはマイナスを少しでもゼロに近づける行為であり、サービスとはゼロかプラスの状態を、よりプラスにする行為である、と捉えることもできそうだ。

以上。閉廷。

教育を勉強したくなった本

 

はじめに

 学生時代は教育学部に所属していた。今は大学院で教育学を研究・勉強している。

 さっさと現場に行けと言われることが多いが、全国で教職大学院が広がっているように、教育、特に学校教育界隈はマスター(修士)レベルまで行くことが進められてきているのだ。僕は教職ではなく研究の方だが。

さて、

 この前大学の先生と話していたら、「学生が全然本を読まん」と嘆いていた。個人的には、別に本を読まないこと自体は悪いことではないとは思う。今の時代、同じレベルの内容はネットにゴロゴロ転がっているしそっちで読めばいい(当然、何が質の良い内容で何がガラクタかを見極めるメディアリテラシーが求められるが)から、わざわざ行動コストのかかる方法を取らなくてもいいんじゃないかという気持ちもある。

 とはいえ、専門書レベルは少しくらい読んでおいた方がいいのも確かだ。知的な面白さに出会う確率は、そうした本であることが圧倒的に高い。

 とはいえ(2度目)、どんな本が心を揺らすかは、人それぞれだ。なので、僕の教育学生活の転機となった本を、ざっと6冊ほど紹介する。面白そうなのがあればぜひ読んでほしい。

 

●教育そのものへの興味

鷲田清一『京都の平熱』講談社

 なんとなく教育学部へ行こうと決めた高校3年生の5月。京都生まれ京都育ちの哲学者の鷲田先生が地元のことについて書いたエッセイが売っていたので読んでみたら、思いのほか(失礼)面白かったのだ。そこでちょっと教育について触れた節がある。

「教育」だとか「人づくり」「次世代育成」などと、ひとは言う。「育てる」というこの他動詞のことばが好きではない。じぶん自身をもてあまし、扱いあぐねているおとなに、「育てる」というえらそうな物言いがほんとうにできるのか、と。「青少年の育成」ということを口に泡して語るごとに、おとなたちはじつは、じぶんが内に抱えこんだ渇きやもがき、あがきを隠しているのではないか、と。(中略)「育てる」より、「育つ」という自動詞のほうが抵抗は少ない。(p.228)

 

 雷に打たれたような気持になったことをよく覚えている。高校生の僕が「教育学部に行くっていっても、そもそも自分だって大したことないのに、人に教えるなんてなんて高慢なことなんだろう」と思っていたら、鷲田先生が同じことを言ってくれていた。大変心強かった。

 

●人が育つとはどういったプロセスなのだろう?

 さて、教育学部に入ったはいいものの、色々疑問が出てくる。教育とは何か?人が育つとはどのようなプロセスか?では、「学ぶ」は?何を目的に教育を行うのか?何が「良い」教育なのか?

 教育学部のくせに教育のことが分からないのだ。アイデンティティの危機である。とはいえ、上のような疑問に完全に答えてくれる絶対的な答えなど存在しない。自分や周りが納得できる、そして教育する対象に誠実であるような論理を、自分で作り上げていくしかないのだ。そのためのヒントとなったのが、以下の2冊だ。

矢野智司『意味が躍動する生とは何か―遊ぶ子どもの人間学世織書房
意味が躍動する生とは何か―遊ぶ子どもの人間学

意味が躍動する生とは何か―遊ぶ子どもの人間学

 

 遊んでいる子どものあの比類ない喜びや楽しさはどこから来るのだろうか?子どもたちは遊ぶことでどうなっているのだろうか?子どもという在り方が、意味を創造しながら豊かに生きていくうえで不可欠であることを示してくれる。

高橋勝『経験のメタモルフォーゼ―〈自己変成〉の教育人間学勁草書房
経験のメタモルフォーゼ―〈自己変成〉の教育人間学 (教育思想双書 9) (教育思想双書 9)

経験のメタモルフォーゼ―〈自己変成〉の教育人間学 (教育思想双書 9) (教育思想双書 9)

 

 人の成熟の行きつく先、つまり教育の目的地とはどこなのだろうか?という自分の疑問にたいして、「そんなものはない」とぶつけてくれた本。つねに流動し続け、自己編成し続けていく経験の様態そのものが重要である、ということを丁寧に論じてくれている。

 

●世界の教育事情は?

アマンダ・リプリー『世界教育戦争』中央公論新社
世界教育戦争

世界教育戦争

 

 

 PISAで世界各国の教育への注目が高まった。おかげで「ウチの国の学力は○位だ」と一喜一憂している。HONZの書評が面白いので、そっちを読んでほしい。

 

●幼児教育

ジェームズ・J・ヘックマン『幼児教育の経済学』東洋経済新報社
幼児教育の経済学

幼児教育の経済学

 

 もはや、幼児教育界隈では必読書になっている本だ。非認知能力(社会情動的スキル)が、社会的な成功を果たすうえで重要な要素である、ということを縦断的な調査により証明している。そして幼児期の教育こそ、非認知能力を高める最も大切な時期なのだ、という主張をしつつ、データで読者を殴ってくる。読み終わった時には「やっぱり幼児教育こそ重要なんだ!」と、いい意味で(?)洗脳されている。僕は洗脳された。

 

●図書教育

アントネッラ・アンニョリ『知の広場―図書館と自由』みすず書房
知の広場――図書館と自由

知の広場――図書館と自由

 

 膨大な情報が、インターネットで検索できる時代である。図書館はどんな場所になっていくのだろう?学校であれば図書室という場所がある。図書教育というものがある。読書という経験を、読書経験をする、図書と出会う場所を、どのように考えていけばいいのだろうか?

 本書では、地域のソーシャル・キャピタルを豊かにする場所としての図書館の在り方を提供してくれている。

水族館の「リアル」さ:【感想】溝井裕一『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』

 溝井裕一の『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』がとても面白かったので、感想を残しておく。

 

水族館の文化史―ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界

水族館の文化史―ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界

 

 

ゆらゆら、きらきら。

 水のなかに住んでいる魚たちが、僕らの目の前を悠然と泳いでいる。あたかも、自分が海のなかにいるような感覚に陥ってくる。彼らは、僕らに目もくれず、超然と水の中を移動する...

 人々は、このような水族館のもつ魔術的な側面に魅了されてきた。同じ環境で、決して生きて出会うことのない「水族」の世界を、自分たちの手で作り出すことに憧れた。

 

アクアリウムをつくることは、気晴らし(レクリエーション)であると同時に、再創造(レクリエーション)なのだ。そしてそれこそが、アクアリウム(水族館)が、むかしもいまも、人びとを魅了してやまない理由である」(71)

 

 博物学と共に進展してきた水族館は、近代になって、大衆と深く結びついていく。

そこでは、ジュール・ヴェルヌの『海底二万海里』の世界、あるいは、浦島太郎の竜宮城のような世界のような水族「観」によって、近代水族館はテーマ化されていく。

 

人びとは、ただ水族を『見る』だけでは満足できず、彼らの暮らす世界へ入っていくような感覚を求めるようになった」(213)

 

 没入感を高めるため、没入感の妨げになるものは目に見えないような仕掛けが施されるようになっていく。ガラスや天井を支えるフレームや柱を岩に見せかけるようにしたり、魚の大量死やバクテリアの繁殖といった幻滅を誘う要素は、目に入らないようにした。

 

水族館は、たんなる水中世界のコピーではない。それは、オリジナルをモデルとしながらも、体験を操作することによって、オリジナルを超えた現実感をもたらそうとする」(214)

 

 こうして、近代水族館は「ディズニー化」してきた。僕たちが水族館に行って感じる「リアリティ」は、生き物の病気や死が取り除かれた「編集された自然」なのだ。それは、ヴォルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で指摘したメディアのあり様である。

 

画家によるイメージが全体的なものであるのに対し、カメラマンによるイメージはばらばらに寸断されたものであり、その諸部分は、のちにある法則にしたがって集められる。このような映画による現実描写のほうが、現代人にとって比較にならぬほど重要であるのは、現代人が芸術作品から正当にも要求している、器械装置から解放された現実の姿を、映画の描写がまさに現実のなかに器械装置を浸透させることによって与えてくれるからなのである」(ベンヤミン、1995(1935/36)、616)

 

 現実のなかに器械装置が浸透することで、逆説的なことに、より「リアル」な現実のイメージが創出される。新井克弥は「本物より、より本物らしい偽物が備えるリアリティー」「本物でなくても私たちが慣れ親しんでいるイメージのほうがむしろ本物だと感じる感覚」(新井、2016、89)を「ハイパーリアリティ」と呼んでいるが、僕たちが水族館で感じるリアリティとは、まさにこれだろう。

 

あるいは、こうもいえるかもしれない。水族館は、シミュラークルをとおして『自然』を知覚する、いわば『自然のシミュラークル化』ともいうべきプロセスの一翼を担っている、と」(272)

 

 水族館では、水族の生活が「二次創作」(シミュラークル)的に消費される。現代の水族館では、プロジェクションマッピングやAR展示等、各所でヴァーチャル・リアリティ技術が導入されてきている。「リアル」と「ハイパーリアル」とが融合した「自然のシミュラークル化」は、これからより一層、進んでいくのだろう。

 

(引用、参考文献)

ヴォルター・ベンヤミン(1935/36)「複製技術時代の芸術作品」、(1995)『ベンヤミン・コレクション』一、ちくま学芸文庫、583-640

新井克弥(2016)「ディズニーランドの社会学青弓社

溝井裕一(2018)『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』勉誠出版