水族館の「リアル」さ:【感想】溝井裕一『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』
溝井裕一の『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』がとても面白かったので、感想を残しておく。
ゆらゆら、きらきら。
水のなかに住んでいる魚たちが、僕らの目の前を悠然と泳いでいる。あたかも、自分が海のなかにいるような感覚に陥ってくる。彼らは、僕らに目もくれず、超然と水の中を移動する...
人々は、このような水族館のもつ魔術的な側面に魅了されてきた。同じ環境で、決して生きて出会うことのない「水族」の世界を、自分たちの手で作り出すことに憧れた。
「アクアリウムをつくることは、気晴らし(レクリエーション)であると同時に、再創造(レクリエーション)なのだ。そしてそれこそが、アクアリウム(水族館)が、むかしもいまも、人びとを魅了してやまない理由である」(71)
博物学と共に進展してきた水族館は、近代になって、大衆と深く結びついていく。
そこでは、ジュール・ヴェルヌの『海底二万海里』の世界、あるいは、浦島太郎の竜宮城のような世界のような水族「観」によって、近代水族館はテーマ化されていく。
「人びとは、ただ水族を『見る』だけでは満足できず、彼らの暮らす世界へ入っていくような感覚を求めるようになった」(213)
没入感を高めるため、没入感の妨げになるものは目に見えないような仕掛けが施されるようになっていく。ガラスや天井を支えるフレームや柱を岩に見せかけるようにしたり、魚の大量死やバクテリアの繁殖といった幻滅を誘う要素は、目に入らないようにした。
「水族館は、たんなる水中世界のコピーではない。それは、オリジナルをモデルとしながらも、体験を操作することによって、オリジナルを超えた現実感をもたらそうとする」(214)
こうして、近代水族館は「ディズニー化」してきた。僕たちが水族館に行って感じる「リアリティ」は、生き物の病気や死が取り除かれた「編集された自然」なのだ。それは、ヴォルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で指摘したメディアのあり様である。
「画家によるイメージが全体的なものであるのに対し、カメラマンによるイメージはばらばらに寸断されたものであり、その諸部分は、のちにある法則にしたがって集められる。このような映画による現実描写のほうが、現代人にとって比較にならぬほど重要であるのは、現代人が芸術作品から正当にも要求している、器械装置から解放された現実の姿を、映画の描写がまさに現実のなかに器械装置を浸透させることによって与えてくれるからなのである」(ベンヤミン、1995(1935/36)、616)
現実のなかに器械装置が浸透することで、逆説的なことに、より「リアル」な現実のイメージが創出される。新井克弥は「本物より、より本物らしい偽物が備えるリアリティー」「本物でなくても私たちが慣れ親しんでいるイメージのほうがむしろ本物だと感じる感覚」(新井、2016、89)を「ハイパーリアリティ」と呼んでいるが、僕たちが水族館で感じるリアリティとは、まさにこれだろう。
「あるいは、こうもいえるかもしれない。水族館は、シミュラークルをとおして『自然』を知覚する、いわば『自然のシミュラークル化』ともいうべきプロセスの一翼を担っている、と」(272)
水族館では、水族の生活が「二次創作」(シミュラークル)的に消費される。現代の水族館では、プロジェクションマッピングやAR展示等、各所でヴァーチャル・リアリティ技術が導入されてきている。「リアル」と「ハイパーリアル」とが融合した「自然のシミュラークル化」は、これからより一層、進んでいくのだろう。
(引用、参考文献)
ヴォルター・ベンヤミン(1935/36)「複製技術時代の芸術作品」、(1995)『ベンヤミン・コレクション』一、ちくま学芸文庫、583-640
溝井裕一(2018)『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』勉誠出版