夜のベランダから

アーカイブ

ボランティアと教育のメモ書き

  •  先輩がボランティア論で修論を書くという。それでここ数ヶ月、僕は先輩とよく議論している。色々考えることがあったので、僕の考えをまとめておく。
  •  ボランティアと教育。このふたつはよく絡められて議論される。 実際に学校教育には浸透していて、学習指導要領の特別活動の項にも出てくるし、JRCみたいなボランティア部だって良くある話だ。
  •  あるいは。大学でのボランティアは推奨される。就活のためという名目でのボランティアはもう今では武器ではないので、どちらかといえば自己成長の論理と結び付けられて、大学で募集が行われていたりする。

さて。

  •  ボランティアってそんなに良いものなのだろうか?
  •  教育とセットに語られるせいで、ボランティアをする行為自体の体験にはあまり目が向けられていないように思われるのだ。
  •  ボランティア自体は教育と大変親和性がある。それはどちらかといえば、体制的な意味合いが強い気がしないでもない。ボランティアは「人手不足」なので(ボランティアに需要という考えを持ち込むのは個人的にはやめた方がいいとは思うのだが)、社会貢献・社会教育・地域教育・道徳等の文脈と結びついて、学校教育で行われる。逆に、教育活動としてボランティアを創出することもあるだろう(募金系とか)。
  •  さて、僕が問題にしたいのは、このときボランティアをすること自体の意味を皆がどのように語るのか、ということだ。
  •  結論を言ってしまえば「自分のためにやっています」「相手のため、というよりやること自体が楽しい」ということが語りづらい構造をしている。それも長くコミットし続けるために大事なことなのに。
  •  ボランティアの本質は純粋贈与であり、経験として回収されるものではなく、体験そのものである、という話を矢野智司はする(『贈与と交換の教育学』)。正直全くもってそのとおりだと思う。
  •  現在教育としてボランティアを語るとき、することそのものに価値が置かれるのではなく、「した結果」でしか語らないのはなんなのだろうか。募集チラシで、ボランティアのインタビュー記事で、ボランティアの振り返りの感想で「ボランティアを通して○○を学びました」というニュアンスの語りしか出ないのはなぜだろうか。
  •  ボランティアをそれなりに続けてきた者としていえば、「そう語るしかできない」のかもしれない。
  •  周りはそういった答えを求めている。分かりやすい結果を。「美しい」物語を。
  •  ボランティアは他者を第一に考えて振る舞うよう規定されている。なので、他者のことを考えていない語りは「ありえない」。
  •  しかしながら、そのような論理で語られるボランティアは、果たして、ボランティアをする側の身になっているのだろうか?そこに教育的意義はあるのだろうか?ボランティアをさせる側の満足にしかなっていなくないか。
  •  ボランティアをした結果を求められるボランティアは、ある種自転車操業のようだ。ボランティアをし続けるために意味が必要なのだから。しかも、その意味も決められた枠のなかで。
  •  もっと色んな動機を肯定できる社会構制であったらいいなと思う。

最後に。

  •  先輩がある論文を教えてくれた。数百名の学生を対象に行った調査がある。小中高に授業の一環としてボランティア活動に参加した95%は現在ボランティアをやっていなかった。
  •  さて、この現状をどう見ればいいのだろうか。