夜のベランダから

アーカイブ

『図書館戦争』書評

 アニメも映画もとうの昔に終わったが、せっかく読んだのだし書こうと思う。

 ⻘少年に悪影響を与える有害情報や⼈権を侵害したり公序良俗を乱したりする表現を取り締まるための法律、「メディア良化法」の成⽴により権⼒による検閲の合法化がなされた。こうした展開に既視感を覚える⼈も多いのではないだろうか。それは、戦前の治安維持法であり、あるいは最近の東京⻘少年健全育成条例である。権⼒による⼀種のパターナリズム的な法律とその法的根拠のもと活動する「メディア良化隊」の武⼒への抵抗として、図書館側は「図書館の⾃由法」の制定と「図書隊」の設置を⾏う。主⼈公の笠原郁は、「理不尽な検閲から本を守りたい」という思いで図書隊に⼊隊する。そして、メディア良化隊との対峙や本を巡る事件のなかで成⻑を遂げていく。

 このひとりの⼥性の成⻑物語の裏に、社会へ⼤きな問題提起が潜んでいる。表現の⾃由と秩序の確執である。全体を同じ⽅向へと社会化し、秩序を保つことを存在意義とし、それを可能とするだけの⼒をもつ権⼒は、根本的に表現の⾃由の理念と対⽴する。そのために現実においても先に例に出したような問題が起きてきた。郁の同僚の柴崎は⾔う。

「結局のところ何かのせいにして落ち着きたいのよね、こういうのって。犯⼈はあの本のせいで歪んだ、この映画に影響されて犯⾏に及んだって。理由付けして原因を取り除いたら⼦供を監督する側は安⼼できるって仕組みね。気持ちは分からないでもないけど」

 それでも、郁や柴崎ら図書隊は表現の⾃由を守るために⽴ち向かう。メディアが権⼒によって統制され⼈間が⼈間としての尊厳を失っていく様⼦は、SF ⼩説『華⽒ 451 度』や『1984 年』を覗いてみれば⼗分に感じ取れるだろう。では、我々はこの本からどのような態度を得ることが出来るだろうか。そういえば、フランスの哲学者ヴォルテールはこんなことを⾔っていた。「私は君の⾔うことに反対だ。しかし君がそれを⾔う権利は命をかけても守ろう」と。

フェアプレイの教育

スポーツにおいて、「フェアな精神に則った」プレイのことを、フェアプレイと呼ばれる。では、フェアプレイとはどういったプレイを指すのか。

 最低限のフェアプレイとしては、ルールを遵守することである。名残として、野球においてヒットのことを「フェア」という。つまり、ゲームの進行に関わる現象をフェアとするのだ。逆に「ファウルボール」はその逆で、ゲームの進行には直接関わらない現象であり、打者にペナルティとしてワンストライクを与えられることになる。

 ルールを遵守すること。これがなければ、そもそもゲームは現出しない。 しかし、このルールは果して外在的なものなのだろうか。つまり、ゲームをする人の関係を無視しても存在するものなのだろうか。 ゲームをすることを「遊び」として捉えるなら、ルールは遊ぶ自己と他者との関係によってその都度変容するものである、と言える。囲碁で弱い相手に何目か渡す行為がそれである。全く同じ条件でスタートしようとすれば、それはゲームではあるが「遊び」ではない。遊びについて研究した西村清和の言葉を用いれば、「遊びの遊動関係が成立するようなルールに従うこと」。これがフェアの本質である。

 子どもはもともと遊びを通して、「フェア」にプレイする。でなければ、そもそも遊びは成立しないからだ。遊びは、その遊びのルールを遵守することを前提として成立する。

 しかし、制度的教育の枠組みを通るなかで、「フェアプレイ」は、ただルールを遵守する以上の意味合いを帯びることになる。H.レンクは、近代イギリスのパブリックスクールにおけるスポーツを通した教育に言及している。「スポーツを通じてフェアプレイの精神を育てる」ことを目的とした学校である。パブリックスクールによって、これまでのスポーツには、余暇としての性格や、暴力解放としての性格が込められていたが、あらたに騎士道精神(モラル)としての性格が導入された。 その中で、「フェア」は、人間一般の道徳的価値としての側面を帯びることになる。

 子どもたちが生涯に渡ってスポーツを続けるためには、スポーツをすること自体が楽しいと思うことが重要である。つまり、スポーツそれ自体の楽しさを教師は子どもに伝えなければならないのである。「スポーツを手段としてスポーツの外にある目的を達成する」という状況に陥らないために、である。

 なら、フェアプレイの教育はどうあるべきか。上の前提に従えば、「騎士道精神を身につけるためのスポーツ」として教育を行うことがいかにナンセンスであるか、よく理解できるだろう。なぜなら、騎士道精神云々はスポーツを構成するものそれ自体とは、無関係なものだからである。

「教える」という行為が計画どおりに行くなんてありえないのだから

計画どおりにしようとしても

教育現場で何かやることに慣れていない人(例えば、教育実習生、あるいはボランティアで教育に携わる学生や大人など)のなかに、こういう人がいる。

何か自分の伝えたいことがあって、子どもたちと話すのだけれど、なかなか上手くいかない...相手が、自分が思い描いていたような反応をしてくれない。また、想像していなかった事態にたじろいでしまい、どうしたらいいか分からなくなって、どんどん深みに嵌っていく...
自分がそういう事態を想定していたら、思わぬことがあってもスマートに対応が出来ていたかもしれない。自分の準備不足が、なにより能力不足が招いたことだ...
「こうした事態にどうやって対応するか」という、方法論をもっと知らなきゃいけない...

何も教育現場に限ったことではないことだ。身に覚えのある人も多くいるだろう。
どういうことかと言うと、

  1. 偶然の、想定していなかったことが起こる。
  2. 上手く対応できず、自分の能力が悪かったと思う。こんなはずじゃなかったのに、と。そして自己効力感が下がる。
  3. 次はこういった事態に上手く対応できるようにと、方法論を学ぶ。
  4. また想定外の事態が起こる。

以下エンドレス。まさに負のスパイラルだ。
こうして、「教える者」はどんどん自分を摩耗させていくことになる。

偶然性を許容する

他人と関わる以上、起こり得る事態だ。なぜなら、他者は「他者性」をもつ、本来分かり合えない相手でしかないのだから。だから、自分が想定していなかった「偶然的な」事態が生まれる。
偶然性は、他者と関わる以上排除できない。

もちろん、教育において、学びは計画されうる意思的・意図的な営みである。しかし、それは学びの一面であり、全てではない。教育学者の田中智志は、学びとは偶有性を孕んだ営みであり、この予期せざる偶有性が学びの楽しさを増大し、自己創出的な学びのシステムを重層的に喚起・促進するという。つまり、学びは計画的な営みであると同時に偶然的な営みである、ということだ。

学ぶことが、計画がもたらす必然性と計画から外れた偶然性を含む以上、「教える」行為も捉えなおされる必要がある。学びの偶然性を認識してそれを肯定したうえで、「教える」行為について再考するとき、その具体的な視点は、単なる方法論を越えて、他者をいかに受容するかとか、他者にいかに興味を持つかとか、、、そうした自分の振る舞いや態度へ目を向けられることになる。

それは、「教える側に求められる資質」が、客観的で測定可能な能力の問題から脱して、己の人格の問題へと転回することを意味している。そっちの方が、競争に彩られるより、有意義だろう。なんせ比べられる必要はない。自分のペースで、成長していけばいいのだから。

投稿テスト

中学生の頃から、その場のノリと思いつきで色々なサービスでブログを立ち上げては、2週間で飽きて消してを繰り返してきた。
これもTumblrからの乗り換えであり、はてなブログ自体は2代目である。

当ブログは、基本的には専門分野の記述に使おうと考えている。
いくらその場で良いことを考えたところで、書いてないと翌日には忘れてしまうことが多いから、自分の思考の足跡を残せればいい。