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フェアプレイの教育

スポーツにおいて、「フェアな精神に則った」プレイのことを、フェアプレイと呼ばれる。では、フェアプレイとはどういったプレイを指すのか。

 最低限のフェアプレイとしては、ルールを遵守することである。名残として、野球においてヒットのことを「フェア」という。つまり、ゲームの進行に関わる現象をフェアとするのだ。逆に「ファウルボール」はその逆で、ゲームの進行には直接関わらない現象であり、打者にペナルティとしてワンストライクを与えられることになる。

 ルールを遵守すること。これがなければ、そもそもゲームは現出しない。 しかし、このルールは果して外在的なものなのだろうか。つまり、ゲームをする人の関係を無視しても存在するものなのだろうか。 ゲームをすることを「遊び」として捉えるなら、ルールは遊ぶ自己と他者との関係によってその都度変容するものである、と言える。囲碁で弱い相手に何目か渡す行為がそれである。全く同じ条件でスタートしようとすれば、それはゲームではあるが「遊び」ではない。遊びについて研究した西村清和の言葉を用いれば、「遊びの遊動関係が成立するようなルールに従うこと」。これがフェアの本質である。

 子どもはもともと遊びを通して、「フェア」にプレイする。でなければ、そもそも遊びは成立しないからだ。遊びは、その遊びのルールを遵守することを前提として成立する。

 しかし、制度的教育の枠組みを通るなかで、「フェアプレイ」は、ただルールを遵守する以上の意味合いを帯びることになる。H.レンクは、近代イギリスのパブリックスクールにおけるスポーツを通した教育に言及している。「スポーツを通じてフェアプレイの精神を育てる」ことを目的とした学校である。パブリックスクールによって、これまでのスポーツには、余暇としての性格や、暴力解放としての性格が込められていたが、あらたに騎士道精神(モラル)としての性格が導入された。 その中で、「フェア」は、人間一般の道徳的価値としての側面を帯びることになる。

 子どもたちが生涯に渡ってスポーツを続けるためには、スポーツをすること自体が楽しいと思うことが重要である。つまり、スポーツそれ自体の楽しさを教師は子どもに伝えなければならないのである。「スポーツを手段としてスポーツの外にある目的を達成する」という状況に陥らないために、である。

 なら、フェアプレイの教育はどうあるべきか。上の前提に従えば、「騎士道精神を身につけるためのスポーツ」として教育を行うことがいかにナンセンスであるか、よく理解できるだろう。なぜなら、騎士道精神云々はスポーツを構成するものそれ自体とは、無関係なものだからである。