夜のベランダから

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なぜ公園から子どもがいなくなったのか:都市公園設置の意図からのレポート

1.子どもと公園

 文部科学省が行っている「体力・運動能力調査」によると、年々子どもの体格は向上しているにも関わらず、体力低下傾向にあることが報告されている。その要因として「三間」の減少が注目されている。しかしながら、外遊びの空間の縮小化が、子どもの外遊びを減少させ、体力低下につながったという見方ははたして本当なのだろうか。主たる遊びの空間とされる公園に目を向けると、既存の広さに縮小化は見られない。東京都を例に挙げると、都市公園の数は昭和32年では320ヵ所であったにもかかわらず、平成23年では11,217ヵ所となっている。つまり、外遊び「空間」の縮小化が、子どもの外遊びを減少させ体力低下につながったという見方は一部にすぎず、空間を原因とする背景については、何らかの別の理由が存在しているものと推測される。

 平塚・引原(2015)は、その要因として、現在の子どもには公園という遊び空間そのものの魅力が失われているのではないかと指摘している。例えば、放課後における児童の遊び場所について調査した安恒(2009)の報告によると、どの学年も「自宅」や「友達の家」など室内空間を選択した者が過半数を占める。さらに、自宅外の空間では「公園」よりも「学校」と回答する者が多くみられている。

2.公園の教育的意図

 都市公園は、経済規模に見合う「生活の豊かさの向上」、すなわちゆとりと豊かさを感じる生活資本の整備および充実という課題の中で成立してきた。都市装置というインフラの充足に対する社会的欲求が高まり、なかでも都市公園・緑地などの緑環境に関するニーズは従来の自由時間の増大やレクリエーションなど個人の余暇生活の充実のためだけでなく、長寿・福祉社会への対応、安全で快適なまちづくりなど社会全体においても必要不可欠な根幹施設として位置づけられるようになった。そのような社会的要請のなかで、都市公園が整備されていく。

 子どもへの文脈に目を向けると、昭和40年当初から、次に挙げるような子どもを取り巻く環境の急激な変化に対して、子どもの遊び場=児童公園の整備に対する要望が出されるようになった。

  • 家庭における庭が喪失し、子どもが手近に利用できる空地がなくなったこと
  • 都会における自動車交通が激化し、子どもが手近に利用できる空地がなくなったこと
  • 学校運動場が開放されなくなったこと

 このような社会情勢を背景として、昭和47年に都市公園の緊急かつ計画的な整備の促進、都市環境の改善を図ることを目的とする「都市公園等整備緊急措置法」が制定された。このような、昭和40年代の都市部における子どもの地域環境の急変を背景とした、子どもの遊び場の整備に対する要望をきっかけに、 「都市公園等整備緊急措置法」 に基づく「旧称児童公園」の整備促進が図られた。

 しかしながら、その後の著しい都市化の進展、都市構造の変化、高齢化の進展、国民の余暇ニーズの変化・多様化、環境問題の顕在化等を背景として、国民生活を取り巻く状況や国民の価値観、ライフスタイル等に大きな変化をもたらすようになった。このような社会状況から平成5年6月、都市公園法施行令が一部改正され都市公園制度が改められた。「もっぱら児童の利用に供する都市公園」と規定され、主な利用対象を児童としてきた児童公園については、少子高齢化の進展により、児童公園の利用者や利用方法が変化してきていること、地域の実状や創意工夫が活かされたものとすることについての要望が高まってきていることなどから、児童を含む広い年齢層の住民のライフスタイルに適する公園として整備することに変更され、区分名称も「街区公園」となった。

 旧施行令では、主な利用者である「児童」の年齢について特に規定していないが、児童公園の整備の基本とされていた緑地計画標準では、児童公園を幼児公園、幼年公園、少年公園とに区分し、幼児公園および幼年公園に共通する目的として「児童の『遊戯』の用に供するもの」とされている。このことから、児童公園の主な利用対象年齢は、幼児および11、2歳以下の児童(小学生)とされてきたと考えられる。

 建築基準法都市計画法の影響により、集合住宅のオープンスペースは、北側や中庭といった、日光の照射量が少ない空間に確保されることが多い。このため、住民の交流スペースであると共に、子ども達の遊び場となるべく空間の質は非常に「不健康」な空間となることが多い。

 このように、公園は「子どものため」から「市民のため」へと変容してきた。公園に置かれる遊具も、子どもの遊戯のための遊具から、大人のための健康遊具へと移行し、公園は私たちの認識とは裏腹に、その性格を大きく変容させたものとなっている。

 

【参考文献】

・東京都総務局統計部(1957~2011)「東京都統計年鑑」http://www.toukei.metro.tokyo.jp/tnenkan/tnindex.htm

・平塚寛之、引原有輝(2015)「街区公園の現状分析ならびに子どもの利用状況と興味関心」、『発育発達研究』67、pp. 1-15

・安恒万記(2009)「都心における子どもの遊び環境について:「放課後の遊び場づくり事業」事例」、『筑紫女学園短期大学紀要』40、pp. 39-51

・申龍徹(2003)「都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(1)」、法政大学法學志林協會『法学志林』100(2)、pp. 83-163

・一般社団法人日本公園施設業協会 共同研究(2015)「子どもの発育・発達に及ぼす公園の利用に関する研究」https://www.jpfa.or.jp/activity/chousa-kaihatsu/images/02.pdf

ミニベロで木曽路をゆく(塩尻〜木曽福島)

 

「木曾路はすべて山の中である」

 

 島崎藤村『夜明け前』の書き出しで、こう書いている。

 

 北アルプス御嶽山中央アルプスに挟まれた谷間。そこを縫うように、木曽路が走っている。

 

 さて、塩尻ー中津川間の木曽路チャリダー(自転車で旅する人)に人気なコースらしい。昔の情緒漂う木曽路の宿場町を巡るのだ。

 

 ただ、大抵の人は整備された国道に沿って進む。旧街道原理主義からしてみれば、由々しき事態である。昔から変わらない木曽路をトレースしたいのなら、石畳だろうがなんだって行くべきなのだ。(暴論)

 

 ということで、塩尻からなるべく旧街道に従って自転車を進める。なお今回はミニベロだ。

 

 今回参照したのは、このサイトである。

https://gpscycling.net/tokaido/nakasendo.html

あと、木曾観光連盟が発行している木曽路ガイドマップが中々いい。

https://www.ginza-nagano.jp/library/book/60002/m/index.html#page=1

 

 塩尻駅の西口からスタートする。本当の街道は、塩尻駅の南にあるので、まずそこに合流する。

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基本的には、19号沿いに進み、宿場町に近くなると脇道に逸れていく。

 

洗馬宿

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本山宿

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本山宿を過ぎたあたりで木曽路となる。

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贄川宿

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奈良井宿

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 問題は奈良井宿を過ぎた場所だ。木曽路最大の難所、鳥居峠だ。入り口に鳥居峠越えのマップがあり、これが参考になる。

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 入りは石畳になっており、しばらく進むと完全な山道になる。自転車は押して進むしかない。

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奈良井宿が見える。随分登ってきた。

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ところどころ熊よけの鐘が掛けてある。

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下りの最後も石畳だ。足首を捻りにかかっている。

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ここを過ぎたらもう後は楽なものだ。

藪原宿

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宮ノ越宿

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福島宿

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ここで休みが無くなったので、今回の旅はここで終わり。

また時間があれば続きをやる。

静岡の有名な「さわやか」のハンバーグを食べに行った話

 静岡の名物といえば、「炭焼きレストランさわやか」のげんこつハンバーグである、と聞いたことがあった。たまたま静岡に行く機会があったので、せっかくなので行ってみる。

 

 今回行ったのは富士鷹岡店。JR身延線入山瀬駅から徒歩10分くらいのところにある。

 

 僕は富士駅から自転車で行ったら、30分弱かかった。

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平日は11:00開店だが、今日は日曜日なので10:45開店だ。

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10:00から受付を開始しているとのことで、10:02に行く。どうやら僕が一番だったらしい。

 

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 店員さんに「今しばらくお待ちください」といわれ、店の周りを散策して過ごす。周囲は典型的なロードサイド店舗で、特に見るものはなかった。富士山は見える。

 

 10:40にもう一度訪れる。待合の椅子はもう人でいっぱいだ。待ち組は40を超えている。

 

10:45に「一番の方どうぞー」と呼ばれる。一番奥の席へ。無駄な優越感。

 

選ぶのはもちろん「げんこつハンバーグ」

サラダとご飯orパンのBセット。パンを選ぶ。

ソースはオニオンソースを選ぶ。これが一番オススメらしい。

 

油受けのさわやかマップとやらを渡される。

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右下に書かれた豆知識、分かりづらくないか...

 

 テーブルはすぐに埋まらない。店員さんは一テーブルずつ、丁寧に対応をしていく。ホスピタリティに満ち溢れている。

 

 サラダに続いて、まん丸のハンバーグがやってくる。店員さんが目の前で半分に切って、熱々の鉄板に押し付ける。

油と肉汁が飛び散ってくるので、さっきのマップで受け止めつつ待つ。

油と肉汁の跳ねが落ち着いたら食べごろだ。

 

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ハンバーグを切ってみると、中は赤いままだ。

 

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食べてみる。美味しい。なによりオニオンソースが美味しい。

トッピングの人参も美味しい。どうやって作ったのだろう。

 

パンも熱々で、あっという間に食べてしまった。

 

 食べ終わって周りを見わたしてみると、入り口には人が並んでいるのに、まだちらほら席が空いている。店員さんが十分な接客が出来る範囲で案内しているのだろう。

 

会計が終わると、「お口直しのハッカ飴をどうぞ」と、ハッカ飴をいただいた。

 

最後までホスピタリティにあふれていた。また行きたい。

民族間の差異の形成と強化の過程の一考察:北アイルランドにおける文化的アイデンティティとしてのスポーツ文化

学部生のときにかいたやつ

1.はじめに

 北アイルランド問題は、アイルランドにおいて多数派のカトリック系住民と、イングランド系・スコットランド系において多数派のプロテスタント系住民間における民族問題である。イギリス連邦に所属する北アイルランドでは、たびたび独立運動が行われている。近年では、1970~90年代に北アイルランド紛争として、カトリック系住民による激しい分離独立運動が行われた。また、2016年のイギリスのEU離脱をめぐる国民投票では、アイルランドへの帰属を訴えてきたカトリック系住民の多くはEU残留を支持し、一方プロテスタント系住民の多くはEU離脱を支持するところとなり、対立が顕在化する懸念を帯びている。

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 一方、スポーツは一般的には各人の自由な意思の下になされる活動と定義される。しかし、歴史的にスポーツは政治に利用されてきた。1936年のナチスドイツによるベルリンオリンピックのように、国力を証明するためであったり、群衆の支持を得るためであったり、さまざまな理由が存在するが、政治的目的を達成するための手段としてスポーツが重要な役割を担ってきたことは、歴史的事実である。さらには、象徴的に祭り上げられた民族スポーツが国民的に受け入れられ「自分たちの文化」として認識する現象もみられる。したがって、スポーツは、集団への帰属意識を促す政治的構造に組み込まれうると考えることが可能である。

 大沼(2003)は、北アイルランドにおいて、英国スポーツに対抗するというナショナルな役割を持つアイリッシュ・スポーツが見出されていった過程を明らかにしている。また、海老島(1998)は、北アイルランドにおけるコミュニティ分断に関して、スポーツが関与した重要性を指摘し、それぞれのコミュニティが、その個別性を表現する手段としてスポーツを利用してきた過程を明らかにしている。

 以上の二人の研究を踏まえて、北アイルランドにおける異宗教住民間の差異の形成と強化のプロセスにスポーツがどのように寄与してきたかを、エスニック境界論に依拠しながら考察する。

 

2.北アイルランド問題の構図

 アイルランドにおける英国の支配は、1690年のボイン川の戦いで、プロテスタントウィリアム3世カトリックジェームズ2世を破ったことで確立したとされる。以降、多数派のカトリックに対する少数派のプロテスタントの優位が、政治・経済を含めあらゆる場面を通じて構造化されることになる。1992年に「アイルランド自由国」の誕生し、英国から独立を果たすことになるが、スコットランドからのプロテスタント入植者が多かった北部アルスター地方は分離され、現在のアイルランド共和国北アイルランドに分割された。北アイルランドプロテスタントカトリックともに4割を占め、ナショナリストユニオニストの政治的対立に呼応している(大沼 2003, pp. 90-91)。

このような歴史的背景から、北アイルランドにおいては、宗教コミュニティはそのまま民族集団として置き換えることができる。したがって、プロテスタント系とカトリック系の対立という構図は、その背後にケルト人としての、アイルランド人としてのアイデンティティと英国国民としてのアイデンティティの対立を孕んでいるといえる。

 

3.スポーツによる差異の形成

 大沼(2003)は「英国スポーツ対アイリッシュ・スポーツといった構図はまた、社会的エリート対民衆という関係とパラレルであった」(大沼 2003, p. 93)と指摘している。大沼は、英国スポーツのカウンター・スポーツとして見出されたGAA(Gaelic Athletic Association)に注目する。GAAとは、ゲーリック・ゲームズと呼ばれる伝統的なアイルランドのスポーツの統括と普及を目的とした団体である。北アイルランドでは、プロテスタント系市民が伝統的に中上流階級を占めるという傾向が現在も根強く残っている。社会的エリート層へのプロテスタントの包摂と、そこから排除されるカトリックという構図があるなかで、英国スポーツは、カトリックにとって英国支配のシンボルとなっていた。こうしたなか、アイルランドの伝統スポーツを復活・保護・育成を通じて組織化していったGAAの取り組みは、「英国スポーツに対するカウンター・スポーツ」(大沼 2003, p. 93)として取り上げられることとなる。GAAの試合開始前の国旗・国歌はもとより、テレビ・ラジオ等のメディアに登場するのはゲール語であり、北アイルランド内でのGAAはカトリックのスポーツと同義となっている。

 このように、北アイルランドにおけるカトリックのスポーツ文化として、GAAが見出されたということは明らかである。つまり、プロテスタントvsカトリックという構図において、カトリック集団によって英国スポーツ文化に対するアイリッシュ・スポーツ文化が見出された。こうして、スポーツは、北アイルランドにおける宗派的社会的分断つまり差異を構成する一要素として組み込まれた。

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 GAAにおけるメジャー・スポーツのゲーリックフットボール

GAA: Dublin v Mayo All-Ireland football final key battles | GAA News | Sky Sports

 

4.スポーツによる差異の強化

 集団間の差異を強調する重要な役割を担うひとつに教育が挙げられるだろう。海老島(1998)は、カトリック校におけるGAAとプロテスタント校におけるラグビーが、それぞれの相違を顕著に示すシンボリックな役割として機能していると指摘する。北アイルランドでは、カトリックプロテスタントは、それぞれ別の教育制度において教育を受けている。そして、カトリック系のセカンダリー・スクールでは、GAAの種目だけが主にプレーされる。一方、プロテスタント系のセカンダリー・スクールだけが競技としてラグビーを採用している。そしてこのことは、海老島が、「アイルランド社会においてスポーツの位置づけや、生活における浸透度は非常に高いため、学校でのスポーツ体験、その後のシニアレベルでのスポーツ実践は異なった社会を象徴する大きなバックボーンになってしまっている」(海老島 1998, p.102)というように、別々の教育システムが社会の文化的分断を再生産させるキー・ファクターとなっていることは明らかである。言い換えれば、セカンダリー・スクールにおけるスポーツ種目の選択が、北アイルランドに根付いた宗教集団間の差異を強化する働きを持っているということになる。

 

5.結論

 本考察では、北アイルランドの集団間における差異の形成と強化に、スポーツがどのように寄与してきたかを考察してきた。北アイルランドにおいては、伝統スポーツがナショナリストによってコミュニティの個別性を表現するスポーツ文化として象徴的に取り上げられ、教育制度によってその個別性を再生産されてきたことを示した。しかし、北アイルランドの全てのスポーツが集団間の境界を生みだしているわけではない。サッカーはカトリックプロテスタント双方に広く受け入れられプレーされている。教育現場においても、分断された教育カリキュラムのなかでもサッカーは双方にとって主要なスポーツ種目となっている。もちろん、大衆化したが故に、チームのコミュニティ基盤や地域性による対立など、別の問題が映し出されることになるが、サッカーを取り巻く環境には、異なる社会背景をもつ人々の交流となる大きな可能性を秘めていることは確かである。

 

【引用・参考文献】

海老島均(1998)「分断された社会におけるスポーツ:アイルランドにおけるスポーツのシンボリズムと文化的多様性に対する寄与に関する研究」、『スポーツ社会学研究』、Vol.6、pp, 98-102

大沼義彦(2003)「アイルランドにおけるスポーツの背景:エスニシティとナショナル・アイデンティティとの間」、『北海道大学大学院教育学研究科紀要』、第89号、pp, 89-103

 

観光をすること

 大学生の頃、長期休暇のたびに一人で日本全国をふらふらと旅をしていた。

 気の向くままに途中下車をしたり、自転車でわき道にそれたりしながら、ブラタモリ的な旅をしていた。旅によって心の安定を得たいとかそういった理由はなく、ただ旅をすることそのものを目的として、その土地の文化に触れ、実際ちょっと染まってみたりする。

 実に旅人的なその行為は、自身の生活世界を越境して、異邦と出会う経験である。

 自分のあずかり知らぬところで、人が淡々と生活している。

 理屈では理解してはいるが、実際にその場に行ってみることは、その知識に納得をもたらす。それは、東浩紀のいうところの、「『分かってしまった』情報に対して、あらためて感情でタグ付けする」*1ことである。

 そしてそれは、自分の生活に戻った後、他者に想像力を働かせる鍵となる。自分の普段の生活が少しだけ色づいて感じるようになる。

 

 そういえば、関西圏出身の人間なので、よく「京都案内してよ」なんて言われる。確かに京都は生活圏内だったが、だからといって「観光地」についてよく知っているわけではない。伏見稲荷銀閣寺は、高校を卒業してから初めて訪れた。

 なので、有名なお寺とか神社とかの蘊蓄を事前に調べて、頑張って案内するわけだが、どうやらそれらにそんなに興味はないらしく、彼ら彼女らにとっては「そこに来た」こと、それだけで満足になるらしい。

 そういう人にとって、旅行に行って観光することはスタンプラリーか何かなのだろう。

 

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 瀬戸内海のとある島にて。愛車のミニベロ(BD-1 classic)で移動中のときの写真。

 

*1:東浩紀(2014)『弱いつながり 検索ワードを探す旅』、幻冬舎、p.85

敦賀から秋田までフェリーで移動してみた

関西から日本海側に行くのって中々大変なんですよという話

 

関西から新潟やさらにその北に行こうとするのは、中々難しかったりする。

 

車は単純に運転するのがしんどいのでNGだ。深夜バスもスキーやスノボのツアーを除けば本数はそれほど多くないし、長時間座り続けるのは体力も持っていかれる。通常の観光のための移動手段としては、あまり向いていない。

サンダーバードも金沢までだ。そこから北陸新幹線に乗り継ぐという手はあるが、いかんせんお金がかかる。2012年までは、寝台列車日本海」が走っていたが、今では廃線になってしまった。

飛行機も飛行場まで行くのに手間がかかるし、お金も高くつく。

 

などなど、中々行けない(行こうと思わない)理由を挙げつらってきたが、まだもう一つだけ道は残されている。

 

海路である。

 

大学の先輩から、敦賀から新潟・秋田間のフェリーが出ていると聞いた。

 

新日本海フェリー

 

これだ。

海ならよほどのことがないかぎり天気に影響されずに移動することが出来る。

 

どうやら学割もあるらしい。敦賀−秋田間8970円。まあ宿泊代と交通費が一緒になることを考えたらそんなもんかと思われる。

 

 

乗ってみよう

 

3月某日。

 

敦賀に到着。

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船は10時に出る。HPに出航一時間前にターミナルに来てくれと書いてあったのに、敦賀駅からの連絡バスは、9:30発である。大丈夫なのかこれと思いつつ、9:45にターミナルに到着。

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すぐ手続きをしてくれる。ターミナルの3階までエスカレーターに上がって、入船の手続き。チケットのバーコードをチェックしてもらう。

 

入船。

 

今回は、S席という、1人用の部屋を予約した。入り口はカーテンで仕切られている。

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この日は波が高く、微妙に揺れる。酔い止めを持ってこれば良かった。

 

 

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中は結構広い。

大浴場、売店、喫茶店、レストラン、映画館、自動販売機等色々ある。

ただし、売店やレストランは開店時間が非常に限定されているので(2時間とか)、確認が必要だ。

 

夕飯。

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どんな名前だったかは思い出せない。

 

S席の部屋、船の揺れとともに結構軋む音が聞こえる。

気にならないと言えば気にならないのだが、気にし始めると結構大きな音である。

イヤホン必須かもしれない。

 

また、船の中では無料Wifiが繋がる。

しかし、1回30分まで、計5回までという謎のしばりつきである。これが、突然繋がらなくなったりするので、非常に厄介である。

まあ陸と近いときは、電波が普通に繋がるので、携帯は使える。

 

途中、新潟港へ寄る。

このフェリーは敦賀から新潟、秋田を経由して、苫小牧まで行くのだ。

秋田港に着く50分ほど前にアナウンスをしてくれるので、ぐっすり寝よう。

 

 

予定よりも早い5:20。秋田港に着いた。

僕は連絡バスに乗って、秋田駅へ向かった。

 

 

 

 

シェムリアップからプノンペンまで船で移動してみた

シェムリアップといえば、カンボジア人の精神的支柱、アンコール・ワット遺跡群をはじめとする様々な遺跡が点在する観光都市だ。毎日世界中の観光客がこの街を訪れる。もちろん日本人もだ。

さて、シェムリアップには空港があるが、日本からの直行便はなく、シェムリアップを行き来しようと思ったら、プノンペンシェムリアップ間を何らかで移動しないといけない。

先ほど空港があると言ったように、多くの観光客は飛行機でプノンペンシェムリアップ間を移動する。30分という短期間で移動できるのは魅力であるが、結構高い。安い移動手段としては車がある。バンを借りたり、高速バスで移動する。こちらは大変安いが、車がオンボロなことが多く、乗っているだけで体力が持っていかれる。あと単純に時間がかかる。

そこで船である。

カンボジアの真ん中を占めるトンレサップ湖シェムリアッププノンペン間で高速船が運行しており、値段も飛行機とバンのあいだくらい。時間も5~6時間くらいとなんとも中途半端であり、物好きくらいしか乗らないような気がしないでもないが、現地のガイド曰く「船が一番治安がいい」そうだ。

ということで船である。

12月下旬、シェムリアップを観光した後のプノンペンへの帰り道、どうせならと船を使おうと決断した。

現地でチケットを買ってもいいが、僕は英語もクメール語もできない純日本人なので、日本人スタッフのいる現地のツアー会社でネット予約を取った。確か44$辺りだったように思う。

前日までにチケットをホテルに送付する、とのことだったので、着いたかどうかホテルのフロントに尋ねても「知らん」と言われる。フロントから会社に電話したら、18時までに届くらしい。21時くらいにもう一度フロントに向かうと、「そんなのない」と言われる。「んなことあるか探してくれ」と言って、ようやくチケットがついたことが分かった。チケットの入っている封筒を見たら名前が間違っていた。なんでそうなる。

翌朝。船に乗るその日、ホテルから港まではバンでピックアップしてくれる。6:30に来るというので、急いでホテルの朝食を食べた。待つこと20分、6:50に迎えのバンが到着した。港に向かうまでに、バンは他のホテルで客を拾っていき、すぐにバンのなかは人と荷物で一杯になった。 f:id:antarctic_fox:20171228171017j:plain

港に着くと、船に乗る前に色んな食べ物を買わそうとする行商たちがわらわらと寄ってくる。パン一個1$。バッタンバンで同じパンを買えばその半額で買えるので、観光客価格なのだろう。

他のホテルからピックアップされたのであろう観光客も集まってくる。ほとんどの客は欧米系だ。 f:id:antarctic_fox:20180411212629j:plain

さてチケットを見せて船に乗り込む。トランクなどの大きな荷物は船の上に積む。船乗りが上に乗せてくれるのだが、座席に座っていたら「荷物を積んだんだから1$ちょうだい」とチップを要求してくる。「いやだ」と言ったら次の客のところにねだりに行った。 f:id:antarctic_fox:20171228171312j:plain

船に乗り待つこと一時間、8:50にやっと船が出発する。船体が低く安定しているため、大揺れはしない。これなら船酔いの心配もないだろう。 f:id:antarctic_fox:20171228171211j:plain

f:id:antarctic_fox:20171228171707j:plain 船内の様子。

トイレは船内の後ろにあり、ちゃんと男女で別れている。水洗だが、水は湖の泥水そのままだった。 f:id:antarctic_fox:20171228171111j:plain

ちなみに船の上にも上がれる。ただし上に上がるまでの脇には柵がないので、落ちたら終わりだ。気をつけてよじ登ろう。 f:id:antarctic_fox:20171228171349j:plain 音楽を聞きつつ大の字になって寝転んで寝る。最高でしかない。

また、船のなかには飲み物やお菓子が売っている。コーラを1$で買った。(バッタンバンであれば0.5$で買えたから、観光客価格なのだろう)

陸の近くを通ると、水上住居が見える。雨季の増水があるからか、高床式の家が目立つ。 浮き家もある。 f:id:antarctic_fox:20171228171455j:plain

途中、小船が近づいてきて、数人の外国人が乗り継いでいった。 f:id:antarctic_fox:20171228171538j:plain

そんな景色をひたすら眺め続けること6時間弱、14:40に船はプノンペンに到着した。プノンペンの名の由来となった、ワットプノンの近くだ。 f:id:antarctic_fox:20171228171626j:plain

港にはトゥクトゥクのおっさんたちが待ち受けており、早速値段交渉をして、ホテルへ向かった。 f:id:antarctic_fox:20180411212744j:plain