指導者の感情労働【メモ】
- 同期の研究を手伝っていて、自分が考えた内容の整理
- ホックシールドの感情労働
- 教師による教育は、感情労働の側面をもつ。
- 教育行為は、他者を望ましい方向へと変えようとする積極的な意図行為である。
- このとき当然に、教師自身が他者の他者性をどのように捉えるかが課題となる。
- 伊佐(2009)は教師の感情労働について、以下のような構造を明らかにしている。「子どもの感情に対する働きかけが教授行為の基本を構成しており、教師が教授行為そのものを成立させるためには、子どもの感情を規定すると同時に、自己の感情をも規定することが求められる」
- 教育的関係においては、教育行為の成立に感情労働が必要となることが理解できる。
- 伊佐の指摘で注目すべきは「教師の感情労働は、強制され、他律化されるという一面をもちながらも、それと同時に、日常的な教育行為を成立させるために教師自らが行うという戦略的な側面をもつものでもある」ということである。
- つまり、教師が感情労働を戦略として積極的に引き受けるのだ。
- それは、教師自身の、教師としてのアイデンティティを確立する行為としても働くだろう。
- 問題は、他律化される感情と、教師自らが行う戦略的な感情が、矛盾する、あるいは一致しない場合である。
- 今までは教師の話であった。指導者に話を広げよう。これまでの教師は学校教師の略称であり、ここでの指導者とは、教師を含めた「教える者」として捉える。
- まず、指導者は教師以上に、他律化された感情労働の因子をもつ可能性がある。
- もちろんこの因子は、教育的関係の契約によって増減する。
- しかしながら、指導者を取り巻く因子が、教師以上に多様であることは容易に想像できる。
- 学習者のみならず、学習者の関係者(家族、友達)・指導者の関係者(雇用主、同僚)・指導する内容そのもののエートス等々
- 教師はこれらの因子が学校教育という制度によって固定化されていて、他律化された感情への戦略を練りやすいのかもしれない。教師になる人は、「教師」という立ち振る舞いに、ある種の了解をしているともいえる。
- 教師の感情労働の側面も時代と共に変化はあるだろうことは容易に推測できるが、それは大きな変容でもないだろう。
- 指導者に広げると、因子が社会の価値の多様化と関連しており、まず、取るべき「良い」感情を認識するのが難しいように思われる。
- 他にも、個人が自律的に選択した感情労働は、そう簡単に切り替えがきくものでもないだろう。しかし、学習者の個別性が重視される場合、それとの折り合いをつけていくことは困難となるだろう。
- 指導者は、どのように折り合いをつけているのだろう。
【参考文献】
移動趣味としての原付
はじめに
先日原付で一人旅に行っていた。移動趣味者を標榜する者として、原付という移動手段が果してどれだけ旅行で有用か気になってはいたのだ。
その場の気分を第一の行動原理に置く一人旅の場合、移動することそのものになるべき障害が無い方が良い。言い換えれば、自分の意思決定を阻害する要因が少なければ少ないほどいい。止まりたいと思ったときに止まることができる、入りたいと思った場所に入ることができる。これをなるべき可能にする移動手段は当然、徒歩である。立ち止まっていても基本的に誰かに迷惑をかけることはない。
しかし、移動である以上、考えなくてはならない因子がある。距離と時間である。
距離と時間、そして場所を天秤にかけながら、旅の計画は立てられるし、その移動手段も決めていかなければならない。例えば車移動の場合、移動する道、停まる場所に制限がかかる。したがって基本的に車が置ける場所にしか行けない。これでは点移動が中心になってしまう。なので、これまで自転車を使ってきたが、いかんせん体力がいる。旅行が一週間とかにわたると荷物も重くなるし、腰と背中がバキバキになってくる。
そこでバイクである。特に原付、最高速度の制限が30km/hだし、ちょっと早い自転車みたいなものだ。駐輪場に停められるのもポイントが高い。バイクならそんなに体力も取られないし、荷物は荷台に載せていられるから楽は楽である。
バイクを借りる
そこで今回バイクを借りることにした。借りたのはここ。
多くのレンタルバイク屋は駅から離れたところにあるのだ。そこまでどうやって行けっちゅうねん、と突っ込みたくなる。しかし今回借りたここは、横浜駅から歩いて5分の駐輪場に置いておいてもらえるということで大変便利であった。
借りたのはリトルカブ。 一週間のレンタルとヘルメット、車両補償コミコミで22500円だった。同じ距離を電車を乗るよりは安い。
ちなみに原付に乗ったのは教習所で自動車の免許を取る際に乗った以来、数年ぶりである。当然カブの操作もままならず、最初の15分はエンジンが入っているのかも分からずにひたすら車体をいじってみることに専念する有様であった。
旅程
こんな感じ。
5泊6日で移動距離は800kmと少しである。旧東海道から伊那街道へ、そして甲州街道と、なるべく下道を走るようにした。浜松から伊那へは大体210kmくらい走ったのだが、これはさすがにお尻が痛くなった。
乗ってみて
- 風はそんなに怖くない。
- 追い抜かれる時はさすがに怖い。特に車体の広いトラック。
- 白線(車道外側線)は滑る。しかもあの辺りは草が生えてきていたり、地面が少し盛り上がっていたり、ヒビが入っていたりするので、結構気を遣う。
- 荷物の管理は考え物。今回は荷台に括りつけていたが、どこかに寄るたびに防犯上の問題から一回外して、また乗るときに括りつけてを繰り返すことになった。鍵付きのリアボックスがあればいいかもしれない。
- USB充電とスマホホルダーは便利。ただアプリを使いながら充電するとiPhoneだとよく充電できなくなって困った。電圧が足りない?この辺は機械の問題かも。
- 燃費は素晴らしく良い。70km/ℓくらいをキープしてくれた。
- 自転車感覚で使うのはやはり難しい。やはり道交法上の制限を考えなければならない。歩道を行ける自転車がいかに便利かよくわかる。
- 思っているより重い。
- 曲がるとき下が擦れそうで怖い。
- 30km/h(まあ実際はもう少し出しているが)という制限があるため、旅行の計画が立てやすい。目的地までの時間の感覚がつかみやすい。
とまあ、こんなカンジか。原付二種が欲しくなってきた。
Atomを試してみることにした
1.長いはじめに:テキストを書くために
大学ではレポートや論文やレジュメを作る機会がたくさんあるが、ではそのためのテキストを打っていくとき、何で作るかは考えるところだ。
とにかく、文章を整理して打つことが出来て、その気になれば表や図を載せることができて、思うようなレイアウトで印刷できることが必須となる。別にデザイナーになりたいわけではないのでシンプルでいい。
Microsoft OfficeのWordでええやんけとなるが、これがそうもいかない。Wordのデメリットをいくつか挙げる。
- Wordにはバージョンがあり古いバージョンの文書を新しいもので読み込めなかったり、レイアウトが変わったりしてしまう危険がある。
- そもそもOfficeを導入するのにはお金がかかる。デフォルトでOfficeが入っているSurfaceを買うにしても最近高いし。(まあ既にSurfaceは持っているのだが)
- 僕は文章の半分をiPadで書いているのだけれど、11インチ以上のタブレットを使う場合、Office365でないといけなくなった。365には永久ライセンスという概念が無く、月額あるいは年額の支払いが発生する。学生でいる間は大学のアカウントで登録出来るので無料で使用できるが、あと1年の命である。
- 印刷や原稿の最終チェック、がっつり腰を据えて書きたいときの固定砲台として使っているSurface3くんの調子が数年前からよくない。具体的にいえば、Wordがたまに落ちる。1時間かけて書いた数千字の文章が消えてしまった...みたいなことが何度かあった。今思い出しても殺意が沸いてくる。
ということで、テキストエディタとしてWordは使いたくない。だとしたら、代わりを探さないといけない。できれば、先ほど挙げたWordの問題をクリアできるような。
Microsoft Officeのパチモンみたいなもの(失礼)としてGoogleのオフィス系サービスや、高校生の時お世話になっていたOpen office、最近だったらき企業でもよく使うWPSやKINGSOFTなんかがある。
まあ、正直それだっていつまで使えるか分からない。互換性が確保されていないと中々使いづらいところではある。
なので、学部の途中から、Markdownを使っている。Markdownエディタは結構軽くてて使いやすいのも多いし、色々試しながら使っている。はてなを始めたのも、元々Markdown記法で投稿ができるからだ。この文章もMarkdown記法で書いている。使いやすさは微妙だが。
Markdownファイルは全て、DropboxかGoogle Driveで共有して、各デバイスからアクセスできるようにしている。Google Driveは大学のおかげで容量を気にする必要が無いので、バックアップの一手段として用いる。
iPadでは「1Writer」を使ってDropboxからアクセスできるようにしている。Dropboxは頻繁にアクセスするため、今受けている講義のレジュメや論文を放り込んでいる。iPad用のエディタは色々試したが、今のところこれが一番だと思う。
問題はノートパソコンの方。学部生のころは「Haroopad」を使っていたが、なんというかデザインが合わなかった。大学院に入ってからは「Typora」を使っている。シンプルで使いやすい。htmlも打ち込めるので、細かなレイアウトの変更もそれなりに効く。
2.Atomに手を出してみる
だったのだが、最近そろそろプログラミング言語を勉強した方が良いんじゃないか、という気持ちが出てきた。将来、自分が就くであろう職業を考えるとおそらく必要になるかもしれない、という見立てが半分、「なんかかっこええやん」という気持ちが半分。
んで、とりあえずMarkdownで書くこともできつつ、気が向いたときに各プログラミング言語に触ることができそうなAtomをインストールしてみた。とりあえず、色々設定をいじって、パッケージをインストールして、Markdownで書くのに支障のない環境だけは作り上げた。
3.Markdownからpdfへ:いい感じのレイアウトの文書をつくるために
AtomをMarkdownエディタとして整えたのはいいが、レジュメを印刷しようと思うとうまいこといかなかった。
パッケージの「markdown-pdf」を試したが文字が小さすぎる。色々調べても(と言っても日本語の範囲でだが)どうやってうまいこと設定したらいいかが出てこない。
こうなれば、「markdown-preview」をいじる方が速そうだ。
AtomエディタのMarkdown PreviewのCSSを実務書類的に調整する
この記事のをstylesheetにコピペし、フォントや余白設定などをいじいじする。
pdfにしたときのレイアウトを見ながら、以下のように変更した。
.markdown-preview.markdown-preview { @c_border: #666; // border-color max-width: 900px; margin: 0 auto; padding: 30px; color: black; font-size: 13px; font-family: 'Meiryo'; hr { margin: 50px 0; background-color: transparent; &:after{ content: ""; display: block; border-top-style: ridge; } &.pb { // <hr class="pb">を入れる事で、 // プリント時の改ページを指定することができる。 page-break-after: always; &:after { display: none; } } } h1, h2 { font-family: 'Meiryo'; font-weight: normal; border-color: @c_border; } h3, h4, h5, h6 { font-family: 'Meiryo'; font-weight: normal; } h1 { font-size: 17px; border: none; margin: 10px auto; text-align: center; letter-spacing: 4px } h2 { font-size: 15px; letter-spacing: 2px; margin: 10px auto 7px; } h3 { font-size: 14px; font-weight: bold; margin-bottom: 7px } h4 { font-size: 14px; margin-bottom: 8px } h5 { font-size: 14px; font-weight: bold; margin-bottom: 5px } h6 { font-size: 14px; margin-bottom: 5px } // 見出し以外のタグを字下げする // ぱっと思いつく、よく使うタグを指定 p, table, ul, ol, dl, pre, blockquote { margin-left: 10px; ul, ol, dl { margin-left: 0px; } } table { border-collapse: collapse; border-spacing: 0; max-width: 800px; th { text-align: center; background-color: #eee; border-color: @c_border; } tr { border-top: #666; } td { border-color: @c_border; } } .margin-clear { margin-left: 0; } // テキストの中央揃え .center { text-align: center; &:extend(.margin-clear); } // テキストの右寄せ .right { text-align: right; &:extend(.margin-clear); } }
htmlに出力して、pdf印刷の画面を表示してみる。
なかなかいい感じのレイアウトになった。あとは、pagebreakのタイミングとかが、previewの時点で分かればいいのだけれど...
ボランティアと教育のメモ書き
- 先輩がボランティア論で修論を書くという。それでここ数ヶ月、僕は先輩とよく議論している。色々考えることがあったので、僕の考えをまとめておく。
- ボランティアと教育。このふたつはよく絡められて議論される。 実際に学校教育には浸透していて、学習指導要領の特別活動の項にも出てくるし、JRCみたいなボランティア部だって良くある話だ。
- あるいは。大学でのボランティアは推奨される。就活のためという名目でのボランティアはもう今では武器ではないので、どちらかといえば自己成長の論理と結び付けられて、大学で募集が行われていたりする。
さて。
- ボランティアってそんなに良いものなのだろうか?
- 教育とセットに語られるせいで、ボランティアをする行為自体の体験にはあまり目が向けられていないように思われるのだ。
- ボランティア自体は教育と大変親和性がある。それはどちらかといえば、体制的な意味合いが強い気がしないでもない。ボランティアは「人手不足」なので(ボランティアに需要という考えを持ち込むのは個人的にはやめた方がいいとは思うのだが)、社会貢献・社会教育・地域教育・道徳等の文脈と結びついて、学校教育で行われる。逆に、教育活動としてボランティアを創出することもあるだろう(募金系とか)。
- さて、僕が問題にしたいのは、このときボランティアをすること自体の意味を皆がどのように語るのか、ということだ。
- 結論を言ってしまえば「自分のためにやっています」「相手のため、というよりやること自体が楽しい」ということが語りづらい構造をしている。それも長くコミットし続けるために大事なことなのに。
- ボランティアの本質は純粋贈与であり、経験として回収されるものではなく、体験そのものである、という話を矢野智司はする(『贈与と交換の教育学』)。正直全くもってそのとおりだと思う。
- 現在教育としてボランティアを語るとき、することそのものに価値が置かれるのではなく、「した結果」でしか語らないのはなんなのだろうか。募集チラシで、ボランティアのインタビュー記事で、ボランティアの振り返りの感想で「ボランティアを通して○○を学びました」というニュアンスの語りしか出ないのはなぜだろうか。
- ボランティアをそれなりに続けてきた者としていえば、「そう語るしかできない」のかもしれない。
- 周りはそういった答えを求めている。分かりやすい結果を。「美しい」物語を。
- ボランティアは他者を第一に考えて振る舞うよう規定されている。なので、他者のことを考えていない語りは「ありえない」。
- しかしながら、そのような論理で語られるボランティアは、果たして、ボランティアをする側の身になっているのだろうか?そこに教育的意義はあるのだろうか?ボランティアをさせる側の満足にしかなっていなくないか。
- ボランティアをした結果を求められるボランティアは、ある種自転車操業のようだ。ボランティアをし続けるために意味が必要なのだから。しかも、その意味も決められた枠のなかで。
- もっと色んな動機を肯定できる社会構制であったらいいなと思う。
最後に。
- 先輩がある論文を教えてくれた。数百名の学生を対象に行った調査がある。小中高に授業の一環としてボランティア活動に参加した95%は現在ボランティアをやっていなかった。
- さて、この現状をどう見ればいいのだろうか。
初マラソンに向けて:いかに楽してトレーニングするかを考える
1.はじめに
市民マラソンに応募した。
実はこのマラソン、去年も応募して当選していたのだが、本番1ケ月前に足を捻挫して歩くのも大変だったので、結局走らなかった。
よくよく振り返ってみれば、生まれてこのかた10kmより長い距離を走ったことはない。そして、今も運動をしていない。1ケ月に1時間運動していたら良い方である。マラソンに当選するしないは別にしても、あまりに運動していなさすぎである。最近少し顔に肉が付いてきた気もする。これを機に定期的に運動する習慣を整えていければいい。
さて、フルマラソンを走るとなると、トレーニングのやり方を考えなければならない。当然、やみくもに走ればいいってもんじゃない。時間もやる気も有限である。効率良くトレーニングしなければならない。
こちとら中高保健体育科の教員免許を持っているのだ。頭を使ってやろう。
2.現状の把握
まず、自分の実力を確認せねばならない。マラソンの距離を走るペースとしては、主観的運動強度(RPE)13あたりがもっとも理想といわれている。いわゆるスロージョグと呼ばれる、自分にとって「このペースならずっと走り続けることがぎりぎりできるスピード」だと思ってもらえばいい。
で、とりあえず6km走ってみた。計測はiphoneアプリの「Runtastic」を用いた。
結果
ご覧のとおり、だいたい5.5(min/km)あたりだ。フルマラソンのタイムとしては、できれば4時間を切りたいので、そうなればだいたい5(min/km)のスピードを目指さなければならない。ということは、今のタイムを縮めていくためのトレーニングが必要となる。
3.(なるべく楽そうな)トレーニング方法を考える
ということで、必要そうな情報を揃える。ランニングパフォーマンスに関わる要素は、以下の3つといわれている。
- 乳酸性作業閾値(LT)
- 最大酸素摂取量
- ランニングエコノミー
乳酸性作業閾値
走る、という行為は筋肉の伸縮によって行われる。そして、筋肉は速筋と遅筋に分類され、それぞれで使用する成分が異なる。速筋で糖を使ってエネルギーを作り出すと、結果として乳酸が生まれる。この乳酸は遅筋に取り組むことによって、酸素と脂肪と合わせてさらにエネルギーを作り出すことが出来る。運動強度が一定以下であれば、乳酸を遅筋が取り込み切ることができるため、血中の乳酸が増加することはない。しかし、運動強度が高くなると、速筋の動きがさらに活発になり、乳酸の生成が増加し、遅筋が取り込んで使用しきれずに、乳酸が溜まることになる。
この乳酸濃度の値が上がらないで運動できる強度を、乳酸性作業閾値(LT)と呼ぶ。乳酸性作業閾値が高まれば、速いスピードでも乳酸を遅筋に取り込んでエネルギーにできることになるということだ。
これについての効果的なトレーニングが、スロージョグである。LSD(Long Slow Distance)と呼ばれるようなゆっくりとしたペースで長い距離を走り、遅筋を使い続けることで、遅筋を疲弊させ、それをフォローするように速筋が動員される。これを続けることで、速筋が遅筋化する。こうすることで、乳酸性作業閾値を効率的に高めることが出来る。
最大酸素摂取量
最大酸素摂取量とは、肺に取り込まれた空気の中から酸素をどれだけ筋肉など体内の組織に送り届けて使うことが出来るかという指標である。筋肉単位でいえば、呼吸の能力ではなく、筋肉が酸素を受け取って使う能力とでもいえるだろうか。最大酸素摂取量が多ければ、筋肉で多くの酸素が使用できるということであり、多くの遅筋で脂肪と乳酸と合わせエネルギーを作り出すことが出来ているということになる。
これについては、前述したスロージョグもある程度有効だが、今回はより効率的なインターバル走を導入する。スロージョグが時間をつかうことに着眼したトレーニングとすれば、インターバル走は、強度に着眼したトレーニングである。具体的にいえば、400mダッシュし、400m歩く、また400mダッシュ…ということを繰り返す。慣れてきたなら、距離を延ばしたり、本数を増やしていくことになる。あんまり時間をかけずにできるので、こういうのもありだろう。
ランニングエコノミー
最後にランニングエコノミー。これは、ランニングの経済性、つまり燃費に関わることで、具体的に言えば、ランニングフォームである。全身の筋肉を走るという目的に向かって、効率的に動かすことができているか、ということである。
例として、脚の動作に注目してみよう。脚の動作で注目すべき点は2つ。ひとつは、下腿の腱の弾性であり、もうひとつは、大腿の筋である。下腿の腱は、なわとびのような「跳ねる」動作を可能とし、走る際の推進力となる。走りに推進力を与える大腿の主な筋肉として、大腿四頭筋(太ももの前側)、ハムストリングス(太ももの裏側)、大臀筋(お尻の筋肉)が挙げられる。この3つの筋肉をバランスよく用いることで、効率的に疲労を軽くして走る。つまり、これらの筋肉のいずれかにのみ負担が集中することは、結果的にパフォーマンスが落ちることに繋がるのである。
これらの筋肉が、効率的に、調和的に使用することができているか、ランニングの際に意識的にフォームチェックを行う必要がある。
筋力
とまあ、それっぽく語ってきたが、正直現時点では長い距離を走るだけの筋力が単純に足りていない。とくに脚回りの筋肉が全然足りていない。走り終わった後攣りそうになってしまう。
走ってちゃんと肉を食べていれば、勝手に筋力はついてくるだろうが、ある程度は筋力トレーニングは必要だろう。とはいっても時間はかからない方が良いので、これは適度に。
4.楽しく走るために
普通に走っているだけだと絶対飽きる(景色も変わらないし、誰かと話しながら走るわけでもないし...)ので、走っている最中に何か気を紛らわすものが必要だ(真面目に走れ)
- まずランニングコース。毎回いろいろコースを変えてみよう。春の時期川沿いを走ると羽虫が目に口に飛び込んできてなんとも走りづらい。というか走りたくない。スポーツグラスやマスクをつけて対応してもいいが、見た目は不審者である。
- 次にランニングアプリ。1km通過何分ですよーとか言ってくれるやつがいい。「Ranstastic」の設定をいじって、1kmごとに時間を通知してくれるようにした。
- 最後にランニングの時に聞く曲。よく「160BPMくらいの曲が良い」なんて聞くが、そんなので曲を決めててもつまらない。だからといって、プレイリストを作っても毎回聴いてても飽きる。毎度プレイリストを入れ替えるのも面倒くさい。そういえば「本しゃぶり」さんが、Siriを使ってKindleの読み聞かせ機能を使いながら筋トレしていたな。
これを使って青空文庫でも聴きながら走ってみたらどうだろうか。kindleにダウンロードしたはいいものの、まだ読んでいない本が結構溜まっているのだ。他にも、落語とかも良いかもしれない。
以上、「楽して」「効率的に」トレーニングを行うための計画を立てた。あとはやる気があるときになるべく走るのみである。
iPad Pro 2018で研究、勉強するためにやったこと(文系編)
はじめに
レポートやレジュメ、論文を執筆するとき、研究室や下宿でノートパソコンを開いてやれば良いのだけれど、誘惑があってやりづらい(研究室に誘惑はないけれども、他の人もいるのでなんかやりづらい)。ということで喫茶店やフリースペースに行って作業しようと思うのだが、ノートパソコンを持っていくのも開くというのも、かさばるし重いし大事に扱わないといけないので面倒くさい。
しかも、論文やレジュメを書くということは参考文献が必要になるので、本や論文を持ち歩かないといけなくなる。 論文をパソコンで読むってのもなんかなあ...だからといって書き込むとなると、紙で持ち運ばないといけないし... パソコンに入れてペーパーレス化しても良いのだろうが、そもそもパソコンを持ち運ぶことが面倒くさい。
長い前フリだったが、ということでiPad Proである。
僕と同じように、気軽に必要な資料を持ち運んで、気軽に色んなところで研究や勉強のために読んだり書いたりしたい!という文系大学生のための記事だ。ここでは、僕が実際に研究や勉強のために、iPad Proでやったことを紹介する。
論文を書くために
キーボード
無くても書けるのだろうが、多分そんな環境で書く人はいないだろう。 iPadと一体型にできる、Smart Keyboard Folioが良いだろう。Enterキーがちょっと大きいのが嬉しい。
分離型なら薄くて軽いLogicool Keys-To-Goも良い感じだった。
書くためのアプリ
レイアウトのことを考えると、Microsoft Wordだろう。無料版だと使えないので、アカウントを紐づけて編集できるようにしよう。学生なら大学アカウントがあれば無料でMicrosoftのアプリが使えるようにしているところが多いだろう。
iPad Proでは内容だけ書ければいいので、基本的に文章を書くときはmarkdownで書いている。.docxに変換したり、印刷するために体裁を整えるのはどうせパソコンなのだ。なので、基本は1Writer Markdown Text Editerで書いている。
色々markdownで書くことのできるアプリを探したが、文章を書いて保存するだけならこれが一番シンプルで良かった。
Dropboxと紐づけられるので、書いた文章は、Dropboxにアップロードする。あとはPCから編集すればいい。
iPad Proくんは、2画面表示もできるので、片方で書きながらもう片方で文章を読む、ということも可能だ。
論文を読むために
ネットで論文を拾ってきてpdf形式でDropboxやGoogle Driveに入れておき、
それを読むときはそれらのオンラインストレージと紐づけたDocuments by Readdleでファイル管理して、
PDF Expertでapple pencilで書き込めるようにしている。
環境を整えるのには初期投資が必要だが、一回買ってしまえば月々に払うお金は発生しないので、学生としてはこっちの方が精神的によろしい。
これだけ揃っていれば大学のレポートやレジュメ、論文を読んだり書いたりするのは困らないと思う。
では、良い研究ライフを。
哲学カフェのネタで思考訓練
参加するはずだった哲学カフェが中止になってしまった。参加するとメールを送ったのが、開催日2週間前である。大学に行く道すがら、自転車に乗りながらテーマについていろいろと考えたことをまとめておく。どこかで使えることがあるかもしれない。ただし、哲学カフェのネタなのでなるべく専門用語は使わない。哲学カフェ的な思考形式に則って思考を進めていく。
テーマは「サービスとはなにか」だった。
サービス
まず思いつくのは、「サービス」という言葉の2通りの使われ方である。
ひとつは、職業としてのサービス。つまり、あるもの・ことを提供することによって、金銭的な対価を得る労働行為としてのサービスである。サービス業なんで言いかたはまさにそれでだろう。
もうひとつは、「これ、サービスね」とちょっとおまけをくれるようなサービス。ここで提供されたもの・ことについて、提供者側への対価は求められていないように思われる。このとき、後者のサービスには、「見返りは求めていません」というメタ・メッセージが存在する。
そういえば、哲学カフェの案内文に、なぜこのテーマにしたかが書いてあった。そこにこんな一文が。
「サービスとボランティアの違いはなんでしょうか」
後者のサービスの定義は、一見ボランティアと意味が被るような気がする。僕たちは、どのようにこの二つの言葉を使い分けているのだろう。そこには、一見同じ行為に見えるが、その認識、意味に何かしら異なるものがあるのだろう。
さらに考える。
さらに考えていく。ここから先で言及するサービスとは、先ほど挙げたうちの、後者のサービスの意味合いである。
例えば、サービスとは個人から特定の個人への贈与的行為をさしている、という仮定はどうだろう。というのも、僕たちが一般にボランティアという言葉を使うとき、ボランティアを行う対象は特定の個人を指して「いない」ように思われる。
もうひとつ。サービスには、返答の義務が発生する可能性がある思われる。つまり、サービスを受け取った側に、「サービスです」と言った時点で何かしらの負い目が発生することがあるように考えられる。
例えば、ある喫茶店に行く。「サービスです」と言われてコーヒーのお代わりをいただく。こっちとしては、悪い気はしないだろう。「次もここを利用してみよう」と思うかもしれない。つまり、「なにかしてもらったから、ここになにかしよう」という、分かりやすい贈与交換の論理が働いている。このとき、喫茶店のマスターは「ボランティアです」とは言わないだろう。サービスとボランティア、それぞれの行為を受け取る側に、微妙な意味の差異が読み取れる。
逆にボランティアされる側としてみればどうだろうか。ボランティアされる側には、もともと何らかの不利があるからボランティアされるのかもしれない。となれば、それはマイナスを少しでもゼロに近づける行為であり、サービスとはゼロかプラスの状態を、よりプラスにする行為である、と捉えることもできそうだ。
以上。閉廷。